わたしたちの間を流れる権力という川について

わたしとあなたという別の考えと心と体を持った人間がいたとして、お互いがお互いを尊重しあうということはこんなにも困難なのだろうか。
どうやら、わたしたちの間には、ときに権力という川が流れていて、お互いの言葉を流していってしまうらしいので。


力関係の違いというのは、微妙だけれど、どこにでもある。
先輩と後輩。支援者とクラエント。先生と生徒。上司と部下。親と子。客と店員。
わたしがもし、わたしが傷ついたということを主語にしてあなたに心を語ったとき、あなたは自身の行動や対応についてどうおもうのだろう。
よくしてやったのに。わたしのことを考えての行動だったのに。崇高な信念があったのに。優しさだったのに。そう、おもうだろうか。
そう言われてしまってはもうわたしに踏み込むことができないとわたしを遠ざけるだろうか。
暴力の告発は、暴力となりうるのか。
(なりうるだろう。しかし、その吐露を退ける理由とはならないだろうとわたしは信じる)
(復讐のために傷つけるのではないのに、相手を傷つけること。わたしがもし完全になれるとしたら死んだあとだけ。完全なる正義などない)


あなたは、もしその川岸に立つわたしたちのそのどちらも大切にしたいと願ったとき、見ないふりを選択するのだろうか。


わたしは踏まれる側について、考えたいとどうしても思ってしまう。川は簡単に濁流となってあなたを飲み込むし、権力のあるひとは堤防を作ってちゃっかり自分を守ったりするだろう。
そんなことになったら踏まれる側は溺れるし、流されてしまうだろう。
弱いものは死ぬしかないのか。
そんなのはいやなのだ。
わたしはとても難しいことだとはわかっていても、あなたを川の前で喪いたくない。心を殺すような思いをしてほしくない。
たとえ川を飛び越えておなじ岸に立つことは難しくても、たとて川を埋めて一続きにすることは難しくても、どんなに細い橋でもいい。わたしは、あなたと言葉をかわしたい。


中立なんて立場はない。わたしもあなたもなにかを選びとっていくしかない。立つ場所では重力がある以上、何かを踏みつけてしまう。わたしたちができることは、せいいっぱい心をそそいで、考えて、選びとることでしかない。そして、踏みつけているものについて考えることでしかない。
謝罪のことばではなく、あしたのわたしとあなたについて考えてほしい。一緒に生きていくためのことばを、選び取って欲しい。

就職活動というものについて、感じたこと   その1

就職活動が、ひととおり終了したので、いろいろ個人的に感じたことを書いておこうと思う。私自身が当事者であるうちに発言できることを発言しておきたいので、その記録のためにも。

はじめに言っておきたいのは、私はよく言う「就活で私は大人になった」とか「成長した」的な感想をまったく持てなかったということ。むしろ、苦しいばっかりだった。大人の社会のほころびが私たちのスタートラインの前にすら壁を作っていて、しかも誰も改善する気もないということ、それなのに、色んな大人はむしろ私たちこそをビジネスの相手にしているんだ…世知辛いにもほどがあるよ…というのを感じたせいもある。大人になるっていうか、うわーなんとかやりすごすしかないなーこれはと思いながら、なんとかあっぷあっぷしていた。成長も何もない。いろんなことを考えはしたけれど。



※たまりたまった鬱憤および、興奮のしすぎで文章が長くなってしまったのでいくつかにわけて書きます…。



・選ばれるということ
私が就職活動をやってみて、一番感じたのは、「選られねばならない苦しみ」だ。
やってみてわかったけど、みんな、ある程度はこの就活という仕組みについておかしいなと、感じている。話した感じ、私の同級生はたいてい「就活爆発しろ」みたいな子が多かったように思う。宗教的に盲信してしまう子もいたようだけれど。
それは、めんどくさい過程が多すぎること(たとえば、手書きを強要されて間違えたら最初からやり直しになってしまう、写経の修行かっていうエントリーシート)。選考過程の長さ(私は受けていないけれど、民間、しかもメガバンクあたりを志望している友達の憔悴具合ったらなかった。7次選考まで行って落ちたりするらしい。どういう仕組みなんだろう)。絨毯爆撃のように就活で自分の予定が埋まってしまうむなしさ。また、学生であるはずなのに、社会人のマナーとやらにのっからざるをえなくなること。あげたらきりがないように思う。また、それらは言われつくされてきたことでもあるだろう。
でも、私が苦しかったのは、それに文句を言うことが出来ないということ。私たちは選ばれる側で、選びとられる側だ。何かを言えば、立場が不利になることも大いにありうるわけで、そうなると口を噤むしかなくなる。インターネットも監視されている可能性があるということを鑑みると、私たちにできるのは居酒屋でくだをまくくらいしかない。
だから、結局どうしようものないのだと、あきらめる。通過儀礼であって、今を我慢すればこれから、自分には降りかからない火の粉だからかもしれない。理由はたくさんあるだろう。でも、いろいろ、理不尽だと感じたことをどうにかやり過ごした人が大勢いるだろうと思う。それが社会なのだと自分を納得させたり、中に入ってから変えてやろうと考えたり、その思いや覚悟は人それぞれだと思うけれど。だからこそ、この仕組みは不思議だ。得してるのは某りくるーとくらいなものじゃないかしら。
そして、そのうえ向こうの評価のポイントが私たちにはさっぱりわからないことも苦しみの原因じゃないだろうか。フィードバックはなく、あるのはもっともらしい成功神話だけ。だからたとえ、もしそこにどんな学力や容姿や性別のフィルターがあっても、見えないブラックボックスの中で行われるから、私たちにはわからない。もしそういった傾向を最終的に残った内定者から感じ取ったとしても、企業側さえ違うと言ってしまえばそれはなかったことになるだろう。
そうなると、私たちはなるべく、落とされる点、つまり向こうが不愉快だと感じる(と自分たちが思う)点をなくそうと躍起になる。それは、服装だったり、化粧だったり、髪型だったり、ESや面接の問答だったり、面接の入退室の仕方だったり、する。それらはコミュニケーション能力と、まるで超能力のようにわけわかんない呼ばれ方をしたりもする。つまり、どこに爆弾があるのか分からない。それが果たして本当に爆発するのかもわからない。そういうなかで、私たちはびくびくしながら予防線を引いて、無難であろうラインを探る。それはいつのまにかマナーと言い換えられ、内部でだんだん強化される。そのうち、常識と言われたりもする。だから情報や、コンセンサスだと思われているものを自分がはずさないように、いろいろな噂話に過剰に敏感になって、2ちゃんねるを見てみたり、楽天みんなの就職活動日記に登録してみたりする。
私も間違ってはいけないルールと、守らなければならない決まりごと、そして自分の考えていることがぐちゃぐちゃに混じって、その中でがんじがらめになる感覚が常にあった。おかしいと思うのに従わなければならないほど、むなしいことはない。
私たちの側に選択肢がたくさんあれば、向こうがとった態度はそのまま企業のイメージに直結して、切り捨てることもできるのだろう。しかし、自分が受けることのできる企業が少なかったり、選考の過程に乗っかっている会社が減ってくると、どうだろう。我慢するしかないようにおもう。ストレス耐性を見るためとはいえ、失礼な面接を私たちの側から積極的に「圧迫面接」などと言い換えて許容し、どうってことないあり得る話だとしてしまうのはなんともおかしな話だと思うんだけれど。ううーん。

つまり、自分にできることは、向こうが魅力的に思う自分を妄想することだけだろうと私は感じた。
落ちた理由がわからない。受かった理由もわからない。なのに、順位と得点がつく。
しかし、選ばれねばならない。誰かに、どこかに選ばれねば、「社会人」とすら読んでもらえないのだから。ここまで背負ってきた親の期待や教育費やそういうものが私の目の前にはずっとちらついていた。焦る気持ちもものすごくわかって、かなしかった。


・就活のために「生活」してきた?
私は、私のやってきたことや考えてきたことや、人生におけるもろもろが就活の中で簡単にストーリーをつけて消費出来てしまうことが気持ち悪くて仕方なかった。ボランティア、勉強してきたこと。部活動。バイト。
私だってあぶれたくないから、耳触りのよいことは小賢しく面接のネタにした。でも、同時に空しかった。純粋に、その時は誰かの役に立ちたいと思ってやったことでも、結局自分のために利用したようにしか思えなくなってしまった。就職のために、生きてきたわけじゃないのに、だんだん就活の中に自分の人生が取り込まれていくような気すらした。こわかった。というか、ちょーきもちわるかった。
別に何かをするのに、理由なんてなくって、わあどうにかしたいって思って動くことがあるのに、就活はそういう曖昧さを許してくれないという感覚が私の中にはある。すべてに理由づけをして、いい経験にした完成形を発表すべきだという強迫があるというか。受けているところによるのかもしれないけど、だからこそなんか息苦しかったなあ。


とりあえず、今回はここまでで。

私のこだわり宣言 トタンがセンベイ嘔吐した

こだわりと云う言葉が突然やってきた。齎したのは奇怪な三人組である。
そのとき私は多くの問題を抱え、自らの静脈瘤であろうか動脈瘤であろうか、どちらにしろできれば意識したくない自らの、ははは、ネガティブな瘤なんてことについて考えたくなかったというか考える余裕なんてちくともなかった。
でもその唐突な三人はそんなことを言ってきて、「帰ってください」なんて言うのはなまやさしい、「ゲラウッフロムヒヤ」っていうのは英語だし、「殺すぞっ、こらあ」、っていうのは脅迫罪に問われるし、どうしたらいいのかなあ、と悩んでいるうちに、というか、いまも悩み続けているうちにこんな冊子が出ることになってしまって困惑している。
けれどもそうなってしまったものは仕方なく、また静脈か動脈か知らんけれども瘤があることには違いなく、専門の医師に尋ねる、ちゅうことないけど、中原中也やってます、みたいな専門の詩人の書いたの、ははは、読んだら完全にアホで、おまえら死人に口ないのええことに好きなこと抜かしとったら詩ィの神サンの罰当たんどみたいなとこあって、そんな三人って、東方の三博士ではないようだし、もちろん自分が中原界のひとりごなんて不遜なことは古今東西すべての神仏にかけて思わないし、中原中也を瘤、こだわり・こわばり、というのも失敬だと思うし、それで引き受けた。
番組には限界があります。
テレビの番組は大体がトホホです。作るのはタイヘンだし、見るのは拷問です。
しかれども、ははは、しかれどもそのなかに一瞬の本当のことが、その本当と云うのは、宝石的な本当ではなく、うふふふふふふ、醜悪な、できれば見たくない本当なのですけれども、それが見える人にはときどき見えます。番組はディレクターのものです。詩は詩人のものです。神のものは神のものでシーザーのものはシーザーのものです。で?ものとはなにか?それを問うて問うて死んだのが中原中也です。いずれ死ぬ。絶対に死ぬ、中原と同様に人間で、そしてパンクから人生をスタートした私はそのように嘔吐しながら死にたいと念願しています。うほほ。それがわたくしの、こだわえい。ははは、で、はは、ございます。ご機嫌よう。と言った瞬間、ぶわあ。空間に時間をやっぱり嘔吐。トタンが食ったセンベイを嘔吐。やっぱり俺はアホやった。

せかいぶんがくぜんしゅうかんけつきねんいべんと に関する自分用防備録

・世界文学全集と冠することに迷いもあった。現代世界文学全集とするなどいくらでも細かくごまかす手段があった。あまりにも看板が大きすぎるから。しかし、今は後悔はない。
・英語では全集をコレクションという。全とつくのは日本語独特。
英語圏主流の世界文学全集的な流れをくみたくなかった。どこか辺境的であり、女性作家であり、旧植民地出身である作者などが結果的に集まってしまった。
・翻訳するときにいちばん伝えたいのはユーモア、でも翻訳で一番失われやすいのもユーモアである
・日本の翻訳はここ20年で飛躍的に良くなった
・訳するうえで自分の時代のことを一切持ち込んでいないつもりでも、訳は20年ほどでふるくなってしまう。まったく書いていないつもりでも、どこかにその時代の香りを持ちこんでしまう。
→原本は手をつけてはいけない、アンタッチャブルなものであるというコンセンサスがあるからではないか?日本人である私たちのシェイクスピアは訳をかえれば、読みやすいものになるが、英語圏の人々のシェイクスピアは読みにくい。イギリスの劇団員に、ロシア語や日本語は訳をかえればいいのだから楽だよな!といわれたことがある。
・翻訳をするということが変わってきた。いままでは大学のフランス語圏の権威がいて、助手がいてそのひとたちによってトップダウン的に訳されてきた。
・昔の日本人の翻訳理論は、ほんとうに頭がよかったせいかすごかった?しかし、そのころの西洋のほうをむいている姿勢を継承しすぎてしまったともいえる。
・人生などのライフスパン、人生計画というものを考えて訳をやったことはない。出したいテキストがあって、それを出してくれる出版社がいて、自転車操業的に訳している(笑)
・全然読めない言語の時は自分には訳でしかその本を確かめることが出来ないけれど、英語の本を読んだ時やっぱり原本が良いと思う。自分の中での読者は訳が良くなってきたこと、注目をあびるようになったことを歓迎している。しかし、自分の中での翻訳者はそれをあまり歓迎しない?(こうのすさんは信頼しすぎないでほしいとおっしゃる)(池澤夏樹はそれは両方すいすい読むことが出来る人のぜいたくな悩みだとおっしゃる)
・柴田先生が訳し、共振してきたのは白人男性と言うマジョリティ的存在。自分の生い立ちの中に書くものを見出せない彼らは、精神的、もしくは肉体的にも身体を様々な場所に移動させることで物語を獲得していたりする。(池澤夏樹的な文学もそうらしい。本人談)だからこそ、書くものは実直だが、だからこそそういう部分にどことなくおかしみが生まれたりもする。
・海外では書店で海外文学、国内文学という棚分けになっていない。日本だけ?

・19世紀で文学はすでに完成した、芳醇な完璧な果実を収穫した感がある。その後はその残滓の中で、それを下敷きに何かをつくっているのではないだろうか。
・まぐろ(たかくないやつ)にしょうゆにすだちをしぼって、タバスコをいれてたべるとおいしい
・昔はドストエフスキーをみればすべての人間がいるといわれて、たしかにそのとおりだった。しかし今はちがう。わたしたち現代の人間の側がそれを逸脱してきてしまった。カート・ヴォネガットが小説のなかで似たようなことを書いている。
池澤夏樹レスコフ「魅せられた旅人」、そして「デヴィット・カッパーフィルド」推し。

・「17歳という感受性の強い時期に読んだほうがいいと思われるものはありますか?」(若い高校生だから許されるけど、この質問ってどうなのよ。世界文学全集ぜんぶ読めばいいじゃーんと思ったし、だいたい自分のことを感受性の強いとかいうのもなんかいけすかないぜ…)
柴田さんは17歳っていうのは自分が世界で一番偉いと思える最後の時、そしてそれをよくあらわしているということでキャッチャーインザライ
池澤さん、辻原さんはデヴィット・カッパーフィールド
鴻巣さんはドストエフスキー
石牟礼道子苦海浄土を入れたのはどういった理由があるのですか?
はじめに24巻まで出すと決めていた時は実は日本の作品は入っていなかった。しかし、あとになってこれを入れるべきだった、と思い、6巻分多く出すと決めたときに収録を決めた。彼女の作品は小説的であり、ルポタージュ的であり、女性の書いたものであり、辺境の文学である。それは池澤夏樹が選ぶ、この世界文学全集の要件にかなうものだった。
もちろん、入れるようなもの、つまり世界的な評価を受けているような作品(たとえば村上春樹など)はたくさんある。しかし文庫で簡単に手に入るものをわざわざ入れる必要はないと思った。
彼女の作品はその内容に値するほどのスポットがあたっているとは言い難いように思う。しかも、3巻すべてを手にいれるのはなかなかむずかしい。おそれおおくもスポットを当てるべきではないかとおもい、今回収録した、とのこと。
くしくも原発の事故が起こり、再びこのなかに書かれているような事態が繰り返されている。今読まれるべき作品であると感じる。(この話の時だけ、池澤夏樹の語気が強まったのが印象的だった)


メモとってないので、完全に記憶による文字起こし(というか自分的防備録)。まちがいがあったらすみません…。

第3回地域力フォーラム まとめ

今日は農文協の第三回地域力フォーラムに行ってまいりました。このフォーラムを主催するのは、農文協という団体で、現代農業と言う雑誌を出しています。私が何故、そんなおそらく縁のなかったであろう、そういう団体が主催するフォーラムに行ったのかというと、ある雑誌との出会いがありました。
私はこのあいだ、本当にたまたま、ブックオフ農文協の出す季刊地域という雑誌に出会いました。ちょうど、創刊号、内容は野菜の適正価格のお話で、ふーん買ってみようっていう軽い気持ちで手に取った雑誌でした。それがこんなに素晴らしいなんて思ってませんでした。(ブックオフで買ったのが申し訳なかったので、定期購読契約してきました。2冊おまけをつけてくれたし!)
ここで述べられていたのは、農業的なつながりで地方の力を取り戻そうという活動でした。そこには地域コミュニティが多いに絡んでいて、社会的包摂なんて言葉まで登場して、私はとても驚いてしまいました。
地域コミュニティの崩壊とか、地域としての絆の再生の文句は叫ばれて久しいけれど、福祉の場に満ちるその言葉たちは、特に大学で聞くそれらはとくに空虚で、言っとけばいいよね、目標だもんねという、実を伴わないものでした。でも、この雑誌の中身は違って。たぶん、地方のほうが高齢化や少子化や、そういう問題が逼迫していて、壊れる寸前みたいなところもあるんだとおもうのですが(これも都市の驕り?)。でも、それでも自分たちの愛する故郷を、どうしていくか、というその切実さを持って、そして住んでいるところをよくしたいという気迫を持って、いろんな活動をしているひとたちがいるというのは本当にすごいことだとおもうのです。ものづくりじゃなくて、そういう仕組み作りについて、私は日本すごい!地方すごい!と拍手を送りたいのです。なので、地域コミュニティ形成なんかに興味がある人は手に取ってみると面白いと私は思います!


前置きが長くなりました。以下、内容まとめ。
※最初の内山先生の基調講演は遅刻したので、気になる方は季刊地域のついったーからおってみてください。

①被災地は今
岩手県住田町 町長多田欣一さん
・住田町自体の被害は、公民館の屋根の剥落等、大規模なものではなかった。しかし、一心同体でがんばってきた大船渡、陸前高田の壊滅的な状況を目にして、衝撃を受けた。そのため最初の1週間は、「寝ないで頑張れ!」と職員に働いてもらった。1週間たてば、全国から物資が来るから、それまでは自分たちが支援しなくてはと考えていた。しかし人口6000人、1年に生まれる子どもの数が40人の町では物資が十分とはいえず、職員が近隣市から調達してなんとか乗り切った。
・住田町は川上から川下までの林業の一貫体系が強み(植林、切り出しから加工まで)。もともと、木造平屋建ての公営住宅があり、家づくりのノウハウがあった。そのため、それを活かして、「仮設住宅」の早期竣工を目指した。
・しかし、仮設住宅は国の法律によると①被災地になくてはならない、②設置主体が県でなくてはならない、というルールがあった。しかし、事態が落ち着いてからニーズ調査をし、建設するのでは時間がかかりすぎる。そのため、国からも県からもお金はいらないのでやらせてくれと言った。予算、入札・契約等の議会議決を待つだけの時間も惜しかったので、議会に相談したうえで(議会もやれと言ってくれた)、専決処分でおこなった。住田町が被災地を見捨てたとは思われたくない。との思いが強かった。
・工業部材(窓サッシ、断熱材等)の調達が遅れ、建築が遅れたのは今後の課題
・すべて地元材で作った。合板も一切使っていない。すべて杉。
・市町村が仮設住宅を作る時、30㎡を超えると建築確認申請がいる。しかしこれ降りるまでに、また一週間と10日はかかる。そのため、基準以下で建築するしかなかった。これらの許可は県が作る際には必要ない。県と市町村は対等な関係ではないのか?
・木造の仮設住宅というのが当たり前だと思っていたら、全国で初めてのケースだったむしろプレハブで作ろうとすると、リコール運動がおこるに違いない(笑)とのこと。
・もともと、四川・ハイチの時のような大地震に備えて準備があった。それは災害の時に、海外に向けて仮設住宅建設を輸出できれば、日本の材木についても興味を持ってもらえるのではないかという考えがあったからだった。
仮設住宅キットのようなものを準備し、国に対しても相談し、図面作成が完了して三月半ばに話を市に行く直前に今回の災害が起こった。
・今後は、ペレットストーブや太陽光の街灯・温水器・発熱器を寄付したいとの声もある
・作って終わりではなく、今後は避難してきた人々と「いかにコミュニティをつくっていくのか」ということを考えていかなければならない
仮設住宅の値段はプレハブだと400〜500万円。今回は300万円。ただし、今回はどさくさで建築部材が上がったせいもある。それがなければ、250万円で作れると思う。
→すごい対応と決断力だと感じました。感じたこととやりたいこと、できること、そして準備がぜんぶ明確に説明できるから、とってもわかりやすい(しかもユーモアのセンスもあるという!)。すばらしい村長さんだと感じました。なにより、動くのがはやい、緊急時にこれだけ迅速に対応できるというのはほんと中央政府見習ってくださいよ!って感じでしたよ。これを全国の林業地域に輸出したいとおっしゃっていたので、今後どうなるかも気になりますー。

◎までい民宿「どうげ」 佐野ハツノさん
・ここ30年くらいの飯館村はとても元気だった。特に女性。
・男尊女卑の村から、「若者の翼」という取り組みで海外に行った時、「自分たちのクラス地域は自分たちで作る」という感覚にはっとなった。それこそがほんとうの豊かさのはずだ!と思い、がんばってきた。いろいろ外に出ていくようになって、佐野さんのお嫁さんが佐野ハツノさんになったのがとてもうれしかった。ずっと男の人たちが担ってきた、農業委員に選んでもらえた。飯館村20行政区あるなかで住んでいた農業依存度も高かったので、なにより「女にはわかんねえ」と言われるのが嫌で必死に勉強した。3期目には農業会長になった。全国初のことでいろいろ講演にも呼ばれた。昔は貧しいと言われていたけれど、頑張って盛り上げて村全体がよくなってきていたところだった。村に誇りを持っていきているひとがたくさんいた。
・先祖代々の専業農家。息子には跡取りなのだ、と小さいころから言い聞かせ、大学で東京に出てきたときには返ってこないと仕送りを止めると言ったことすらあった。そのおかげか息子は、農業に従事することになった。若者の農業従事者は本当に少なくなっていて、彼のおかげで規模を拡大し、様々な役を引き受けてきた。同時に、資本・設備投資がいるので、借金も大きくなった。息子も独立した家を買い、そのローンもあった。未来に向かって進んできたつもりだった。農業で地域の人たちと頑張ってきたつもりだった。地域ぐるみの民宿をやってきた。みんなに元気になってもらえることを目指してきた。
・3月11日は南相馬にいたが、飯館村地震に強い土地だと言われていたので、あまり不安はなかった。しかしそれでも、屋根瓦が落ちたり、食器が壊れたりした。しかし、沿岸部の津波に比べたら、大したことはないと思っていた。
翌日、南相馬にいたときに広報車が回ってきた。「原発が爆発したので、外出するときはマスクをしてください」と言っていたが、その後すぐにそれはうそだと言われた。しかし、日が立つにつれてどうやらそれは本当だったということがわかってきた。
17日の夜に息子たちの家族は東京に避難した。孫のためにおにぎりをにぎった。しかし、牛や馬のために佐野さんと旦那さんは残らざるを得なかった。学者さんが入れ替わり立ち替わり現れて、危険です安全ですと言っていく。それでも、飯館村にいたいから安心ですという言葉を信じたかった。不安で体を壊すこともあった。しかし、作付の時期も近付いており、農作物は作れるという見の判断もあったので、3月末に息子だけを呼び戻し、田んぼの作付をしようとした3月末、高濃度の放射線値が計測された。郵便局も閉鎖し、新聞も来なくなり、農協に勤めていたお嫁さんも仕事を失った。嫁も息子も無収入だが、それでもなんとかしなくてはならない。息子さんは、単身赴任で那須高原で農業の仕事をすることになった。
借りていた機材や資材や家など借金だけが残っている。私たちは東電からも1円もお金をもらったことはないのに。
私たちはできるだけ飯館村に住みたい。国は避難しろと簡単に言うけれど、私たちがこんなにがんばってきた村を捨てろと言うのか。裸で水の中に飛び込めと言うのか。
・親のことも、苦労を考えると粗末にできない。しかし、やはり寿命のほうが放射線の影響より早いと長く暮した土地を離れたがらない。温泉に行くからと言って、ごまかしながら避難を続けてもらっている。
1日でも早い復興を。誇れる村に戻れることを目指して頑張っている人がいることをどうか忘れないでほしい。
・資料から→「村づくりとは単に所得・人口の増加を狙った「ミニ東京」を目指すのではなく、真に自分たちの力で、豊かな暮らしと地域社会を築き上げるというのが、本当の“村づくり”であると考える。豊かさの尺度は、外から与えられるものではなく自分自身の中にある。過疎地域で最も怖い問題は人口の減少ではなく、村民が自分たちの村を自分たちの手で興そうという「自立・自助」を失ってしまう「心の過疎」である。」
→泣きたいのは、たぶん佐野さんのほうだと思うのだけれど、話を聞いているときも、これをまとめているときも泣いてしまった。飯館村放射線値が高いことはもちろん知っていたけれど、私はこういう風に生きてきた人のことを今まで想像もできなかったのだ。おそろしいことに。牛なんていいじゃないって、思っているわけです。都会の傲慢さで。申し訳なさにどうしていいのか、わからなかった。佐野さんは、ふるさとに戻れるのだろうか。はたして、農業を再開したとして、精魂込めて作られたその野菜は食べられるのだろうか。こんな人があの報道の裏には、たくさんいるのだ。生活をまるまる失った人が、いるのだ。
これが、運営していたというまでい民宿どうげ(http://kankou.vill.iitate.fukushima.jp/kankou/kanko/douge/index.html)だそうです。真手(まて)は「手間暇を惜しまず、丁寧に時間をかけて、じっくりと、心をこめて、つつましく」を意味するという、ことです。

②都市と地方との関係
宇都宮大学農学部 守友裕一さん
・都市と地方、都市と農村の格差
資本主義的経済の一般的な特徴として、競争力強化、生産の効率化のため、地域的分業の徹底化、地域的不均衡の発生、大都市に中枢管理機能、地方都市の現場機能化(生産工場など)、都市と農村の格差、対立の発生などがあげられる。そこで、高度経済成長期に考えられた解決方法が大きく分けて二つ、財政調整制度(地方交付税補助金)と地域開発(工場、事業所などを地方へ移転し、地方の経済力を引き上げる=外来型開発)。その極端な例としての原発立地がある。
内発的発展論は、①地域の固有の資源、技術、産業、文化を見つめ、それらを再評価して、土台として活用すること、②住民自らが学習し計画し、学習の機会が地域での人材は医術の文化的基礎となること、③地域にある第1次、第2次、第3次にわたる多様な産業を評価して、祖語の連携と産業連関を重視していること、④地域の個性を基礎に、環境・生態系、福祉、暮らしやすさなどを総合的に考えること、⑤学習を基礎とした住民の主体的参加は、それぞれが潜在能力を発揮し、人間あったつ、豊かさへの道であることを考えていることがあげられる。
※結城登美雄 「よい地域」であるための7つの条件
①よい仕事の場を作ること、②よい居住環境を考えること、③よい文化を作り共有すること、④よい学びの場をつくること、⑤よい仲間がいること、⑥よい自然と風土を大切にすること、⑦よい行政があること
・差別としての原発立地があった。浜通り福島県の「チベット」だった。その「チベット」からの脱却をはかるため、浜通りを「仙台のように!」のスローガンが掲げられた。
・都市へのヒト、モノ、カネの流出があるからこそ成り立つ原発立地。大都市住民の“NIMBY”思考(NOT IN MY BACKYARD)=必要だけれど自分たちのところに作りたくないものを「外に」持っていく意識…。電気は東京へ、原発は福島・新潟へ、放射性廃棄物処理は青森へ、最終処理場案…北海道×、四国×、はてはモンゴルへ…?
原発は「トイレなきマンション」と揶揄される
原発は計画段階から地方・農村を差別し、運転段階でさらに大都市と地方・農村を分断する→そうしないと原発は作れない…(福島浜通りがもし「仙台のように!」なったのならば原発は増設できないはず)。電力会社はかつて原発は地域発展の起爆剤で、そこから原発が無くなっても大丈夫な経済を作り出せる「自発的発展サイクル」が生まれてくるとしていた。しかし、それは実現せず、「仙台のように!」ならなかったからこそ、双葉町議会は福島第一原発7、8号機増設の決議を行った(電源三法交付金の「麻薬神話」)。しかしもちろん、地元で働く電力会社の人のなかにも、一緒に地域づくりを考えていた人もいた…。
→私が前回ブログで書いたことまさに…。地方と都市の関係の再考はなされるのだろうか?この震災により、東北地方からは若年層が相当数流出したと思う。今後の農業経営等に影響が出てくるのだろうか?


山形県金山町 暮らし工房 栗田和則さん
・自分にとっては「都市と山村」ではなく、「山村と都市」。山村の未来は都市との関係にある。都市の優越感のようなものを感じる。圧倒的多数の地方があって、都市はそれを踏み台にして大きくなってきたはず。はたしてこの構造を変えてゆけるのだろうか?本来は都市と地方両方が健全に成り立たねばならないはず…。


NPO法人かさおか島づくり海社 守屋基範さん
笠岡諸島は瀬戸内海の真ん中にあり、南三陸から1300㎞、15時間かかるところにある。もともと「ぼうさい朝市事業」という事業を行っていた。これは防災を絡めた、全国20あまりの地域が加盟する全国ネットワークをつかった事業。救援物資と称して、特産品を送ってもらったり、炊き出しと称して地方の郷土料理販売などを行うなど、人が来て顔をあわせる交流をしてきた。このつながりがあったので、南三陸を無視できないということになり、商店街・社協を巻き込む支援につながった。
・初期は被災地では物資が送られてきていたが、仕分けをする人も足りていなかった。職員はできないために被災者自身が行っていた。そこで、被災地に1番近かった山形県の加盟都市に物資を集め、直接南三陸に届けることにした。だんだんと日にちがたってくると、与えられるだけではなく選びたいという被災者のニーズをよく聞くようになった。そのため、地域通貨(タコ…?)を発行して、それと品物を交換するという工夫をした。売り上げはすべておいて帰り、空になったトラックに現地の品物を仕入れて、また戻ってから地元で売ることで資金を作っている。


③これからの暮らしへ
◎片品むらんてぃあ 代表 桐山三智子さん
・5000人の村で1000人の被災者を受け入れることが村長の英断により決まった。→mixiやネットで「村長最高すぎる!」と若者層が相当盛り上がった。郷土愛の高まりから、若者ができることがあるはず!とボランティア団体「むらんてぃあ」を発足した。連絡もメーリス!情報を流して返信してきた人に担当してもらう。
・見えてきたのは、生活弱者の存在。若者は自家用車等で逃げているため、片品村に避難してきたのは高齢者や生活保護者、子ども連れなどの生活弱者ばかりだった。片品村は医療が弱かったため、通院のための送迎なども必要だった。
・1カ月の予定だった受入れが3カ月に延長され、むらんてぃあにも正式に予算がついた
現在は事務局4名で、病院搬送等を行う村の巡回バスのドライバー、南相馬の方が集まれるたまり場の運営の雇用にも至った。
・これらを今後の村づくりにどう生かすのか?が課題。
→若い人中心の支援。メーリスで情報を流すっていうのは、ならではかな、と思った。新しいつながり、新しい支援につながる?


◎長岡地域復興支援センター 栃尾サテライト (財)山の暮らし再生機構 杉崎康太さん
・地域復興支援員として働いている。地域復興支援員とは、2004年に発生した新潟県中越大震災の復旧・復興において(財)中越大震災復興基金が、震災で被災した地域のコミュニティづくりや、今後の集落づくりの活動支援を行うことを目的に設置。2007年12月〜新潟県中越地域の各地で地域復興支援員が活動をはじめる。現在は中越地域全体で50名ほどの支援員。主な業務は地域住民と考えながら活動し、行政との連携を調整すること。杉崎さんは2008年4月より新潟県長岡市栃尾地域において、スタッフ3名で、20〜100世帯くらいまで、およそ10集落で集落づくりの活動支援を行っている。ブログ(http://ameblo.jp/totio-satellites/)あり。
・震災をきっかけに、中山間地域の抱える課題が顕在化する。山間部を中心に人口や世帯数の減少が急激に加速、集落内の婦人会・老人会など、様々な既存組織が解散し、コミュニティ力の衰退が進み、集落の10年後20年後の生活不安が増大した。また、震災によって、若年層が町場流れてしまったことも原因。50世帯が25世帯に半減した村もあった。若い人がいなくなると、集落活動維持が難しくなってしまう…。
・支援内容は、「ここに住んでよかった」を探ることがいちばん大切。10年後20年後に、今のことに対して「あのときはよかった…」と思われるような支援を。
中越大震災の復興基金によって支援員が設置されているため、活動時期が有期的。活動の継続性や進展がどうなるかどうかが今後の課題。(復興基金は年間60億円で10年間。初めの5年はハード重視であったが、5年はソフト面重視にシフトチェンジ。コミュニティに対して、復興デザインを考えると言う活動が行われ、100近い集落にお金が流れている。ただし、既存の強い組織、土建屋さんがでてきたような地域はワークショップが上手くいかなかったりもしていて、成功率は半々くらい。県がもっと、成功例をアピールしていくべきでは?)
→コミュニティ再生のために正式に支援員がいることを今回初めて知りました…。これは今回の震災後にも生かせるのではないだろうかー。しかし、支援員が外部からの流入であること、そして撤退後にも維持されるのかというところが今後気になるところです…。


長くなりました。大体のまとめなので、精度が欲しいひとは季刊地域のツイッターアカウントが講演当日に内容をほとんどツイートしていましたから、そちらを参考にしていただけると幸いです。

沖縄と福島とわたし

私には、尊敬する沖縄の友人がいる。
本をよく読み、よく消化し、それを圧倒的な語彙力と文章力で表わすことができる、賢く、やさしい人。高校生の時からの私の憧れである。(全然届きやしないわけですが!)


私は彼女と友達になるまで、沖縄という土地について何も知らなかった。
知っていたとしても、それは豊かな自然や温暖な気候や、青い海や空や、優しい人たちのいる穏やかな光景しか、知らなかった。ちゅらさんに出てくるようなおばあが幸せに長生きしていると思っていた。
だから、彼女がアメリカ軍基地の話をしたとき、私はびっくりした。
知識としては、もちろん知っていた。沖縄には全国の7割を占める米軍基地がある。それを、初めて学んだのは小学校の時のはずだ。
でも、そんなのは知らなかったに等しい。その周りで暮らす人々の生活を、全く見ないふりをしてきたのだから。知らなかった自分も、知ろうとしなかった自分も恥ずかしかった。


転載の許可をいただいたので、彼女の去年の4月の日記を見てほしい。

普天間基地県内移設に反対する県民大会に参加した、ウチナーンチュの方の日記
です。
掲載許可をいただいたので、引用したいと思います。
(以下引用)
ここ数週間、この問題を軸に日記等で書いたり、他の人の日記にコメントしたりと、「普天間基地」の問題を自分なりに考えてきました。
そこで直面するのは本土の方々の基地意識ってのはその程度かって事です。
沖縄県はお金をもらってやってるのだからいいじゃないか。」
沖縄県がわがままを言うから徳之島が困っている。お前らにモラルはないのか。」
「他のアジアの国々に比べれば全然安全なんだから文句言うな。」
「お前らの安全は米軍基地によって保たれているんだから、いいじゃないか。米軍がいなくなれば、すぐに中国に占領されるんだ。また、日本が危なくなるじゃないか。」
「基地で経済が成り立っているのに、なくなったらどうするつもりだ。」
等など・・・。
他にも色々ありましたが、全部書くわけにはいかないのでこれくらいにしておきます。
書いてる人は自分の意見は素晴らしいものだと思っているのでしょう。
しかし、沖縄には普天間基地はいらないんです。
普天間基地が外国等からなんと呼ばれているかご存じでしょうか。
「世界一危険な基地」
それは、住宅街の真ん中にあることによります。
沖縄県宜野湾市という所にありますが、住宅地です。
考えてみてください。
あなたの住んでいるその街の上を手が届くような場所をヘリや、爆撃機が飛び交っています。
実際にヘリが沖縄国際大学に墜落したこともあります。


この問題を解決するためには、簡単です。
どこかが受け入れてくれればいいのです。
簡単な話でしょう。
これを言うと「お前らはそんな危ないものを他に押しつけるのか」等と言う人がいます。
あなた方が今している事はそういうことです。
戦後何十年と我々はそれに耐えてきたのです。
日本にある米軍基地の約75%が沖縄にあります。
こんな小さな島にです。
信じられますか。
今日県民大会で、壇上に上がった普天間高校の生徒がこういう話をしてくれました。
『長い長いフェンス。私はここが一体どこなのかわからなくなりました。フェンスに囲まれているのは米軍基地?それとも私たち?』
それくらいの面積を占めているのです。
沖縄県の16%は米軍基地です。
信じられますか。
基地で成り立った経済なんて事もよく言われますが、実際に変換された土地とそうでない現在の基地どっちが潤っているか。
変換された土地での収入は基地による収入の175倍です。
沖縄県民はもう立ち上がるだけの力を持っているのです。
基地問題で揺れて、反対すればストップされてしまう国からの支援。
つまり、沖縄には基地に賛成しなければ国からの補助金やその他もろもろのお金は入ってきません。
脅迫じゃないでしょうか。
今回仲井眞知事が参加を迷ったのも政府からの電話でした。
『基地受け入れにあなたが反対すれば、沖縄への補助等はすべて打ち切る。』
なぜ沖縄だけそんな仕打ちを受けなければいけないのでしょうか。
県民が望んで入ってきたものでもないのに。
勝手に戦争をし、勝手に沖縄に基地を置き、それなのに沖縄に対する配慮や感謝の念は一切日本国民には見られません。
もちろん全員が全員そうでないことはわかっていますが、ここ数日の日記を拝見した方々はそうでした。
沖縄の犠牲の上に成り立つ日本の安全。
安全はタダでは手に入りません。
それを日本国全土で賄うのが普通の感覚なんじゃないでしょうか。
沖縄だけに多くを押しつけて知らぬ存ぜぬで通せる様な話ではありません。


沖縄県民の民意。
とにかく普天間だけでもまずは除去してくれないか。
何のために辺野古沖を選んだのか。
少なからず、平和に近付くからじゃないのか。
普天間の平和への意志があるから県民はずっと辺野古案を受けれてきた。
しかし、現在の政権が『最低でも県外』を主張して沖縄の民意をかき乱した。
それを守ってもらいたいって思うのは悪いことでしょうか。
なぜ、決まった事をひっくり返されて代替案を要求されなくてはいけないんでしょうか。
日本国民にはもっと真剣にこの問題に対して考えていただきたい。
何度も言わせていただいていますが、沖縄という小さな島でこれ以上県民同士を争わせないでください。
心よりお願いします。


沖縄は日本の道具じゃありません。
国のためならある程度の協力をしますが、決して道具扱いをしないでください。
(引用終わり)
この文章を紹介してくれた、マイミクのきしめん太郎さんはこう言います。
「ここで僕が何か書かなければ、たとえば僕が名古屋や広島の友達と一緒に沖縄に遊びにでも行った時に、沖縄の人々と心から楽しく泡盛を飲んだり歌ったり笑ったり、そうしたことが出来なくなったりするのでは、と不安に思いました。」
わたしも、内地の人たちと、楽しくお酒を飲んだり、笑ったり、したいです。

2010年4月28日 ちらさんの日記(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1473185165&owner_id=10855926)より



沖縄という土地は、ずっと苦しんでいる。沖縄の県民の中にはこの問題がずっと、居座っている。
去年の今頃、この国は普天間基地の移設問題でおおいに揺れていた。鳩山首相は海外移設を目指す、最低でも県外に移設すると表明した。
けれど、その言葉が実現することはなかった。基地は必要であるという前提のもと、政府対沖縄県でも、国民同士においても、その是非が深くまで話し合われることはなかった。沖縄の人々にあまりに失礼な態度をとったことに対して謝罪がなされることもなく、普天間基地辺野古に移設されることに、なってしまった。
それが決まる直前、4月末に宮城県荒吐であったロックフェスティバルで、私は沖縄出身のCoccoのライブを見た。彼女は折れそうなほど細い体で宮城県の遅い春の話をしてから、ぽつりと「5月が終わる時に、この日本という国を、まだ信じられたらいい」と、言った。
私はそのことを思い出すたびに、胸がぎゅーっとなる。絶望しなかっただろうか、私たちの決断に。あまりに他人事でしかない結論に。謝っても意味はないし、ましてや私は建設的な解決案は提示できないし、無自覚に無遠慮に恩恵を被っている人間だ。彼女に何も言えるはずがないけれど、でも、涙が止まらない。
知らなくて、ごめんなさい。無視してきて、ごめんなさい。
Coccoが、あっちゃんがあんなに愛している島に、私の友人が手放しでほめちぎるあの島に、ふるさとに、ずっと基地があることを、わたしたちはすぐに忘れてしまう。どんな思いで、我慢してきたのか、しているのか。それを無視して、美しい島だとほめたたえ、おいしくて素敵な部分だけむさぼってゆくわたしたち。どう見られているんだろう。


私は、色んな人が指摘している通り、福島の問題を見たときに、沖縄の基地の問題とそっくりだ、と思った。
何か巨大な取引や利益や欲望や恩恵の前に、私たちはあまりにも簡単に、見知らぬ誰かに汚い部分を押しつける。しかも押し付けられるのは、主に産業のない地方である。
お金が入ってくる、雇用ができることに賛成する人も大勢いる。逆に、土地の環境を危険性を加味して、反対する人も大勢いる。そうやって地元の人々は巧妙に分断され、そのうち雇用も生活もどんどんからめとられ、無視できないくらいに両者はくっついてしまう。抜け出せないほどに。それが正しいのか、そうじゃないかはわからない。ただ、そういう苦しみや葛藤を首都圏の私たちの多くは知らない。もしくは、見ないふりをする。授かっている恩恵があるにもかかわらず、彼らが被る数多の危険性について考えることもほとんどないように思う。
首都圏に住む私たちはものわかりのいいふりをして、沖縄にはりめぐらされたフェンスも、国内に54基ある原発も、日本という国の発展や安全のためには「犠牲」になるしかない、と言ったりする。しかし、「犠牲」になるというのは、自分以外の誰かを指しているだろう。雇用も産業もない土地に古くから住む人々や経済基盤が脆弱で、仕事を選べない人々。名もなき、形なき、誰か。
そして時には、それらを選択した彼ら自身が悪いとすら責めたりする。仕事があるだけありがたいじゃないか、代わりにお金をたくさんもらっていたんじゃないかとすら、言ったりする。
そういう感覚が、私たちには(すくなくとも私には)あったように思う。


私個人は、もう原子力を使い続けるのも、基地を沖縄に置くのもやめてほしい。
福島のことに関して言えば、原発労働者を探してくる手段や方法はあまりに陰湿かつ悪質だし、今回のことで判明した通り、結局暴走したときに止める手段を今の人類は持たないらしいからだ。
なにより、彼らからふるさとを奪った罪はなによりも重いと、私は思う。


しかし、私には、原発をもし廃止したとして、いったい代わりをどうするのか、というはっきりした答えは正直わからない。沖縄の基地にしても同じだ。
みんなで我慢すればいいじゃない、と簡単に思うけれど、私だって今こうやっているように、パソコンを使って文いろんなことをするし、就職したら仕事だってするし、携帯電話だって電子レンジだって使うし、この国の暑さには耐えられないから、冷房をつける。
火力や水力を作ればいいじゃない、というのもまた、正解ではないらしい。土地の人々を分離させ、生活を破壊することにおいても、その危険性においても原発と大差のないものだから。
自然エネルギーでいいじゃない、というのも難しい。今後の開発如何はわからないが、現状の自然エネルギーでは私たちの生活は、おそらくまかなえないという。
(息苦しいほどの、行き止まり。)


ただ、方法なんてわからないけれど、私はもう誰かからふるさとを奪いたくないと思うのだ。偽善だろうか。エゴだろうか。


あなたは、どう思いましたか。教えてくれると、うれしいです。


Cocco アメとムチ:沖縄と辺野古六ヶ所村





※追記

私たちは、どうしたらいいのか。私は、どうしたらいいのか。書いているうちによく分からなくなってきた。
私はおそらく、原発反対の意味合いの中に社会変革を見ている。この出来事を契機にこの社会は変わるんじゃないだろうか、もっと住みよいものになるんじゃないだろうかという夢を見ている。だからこそ、運動し行動を起こしている人々をまぶしく、好ましく思う。今まではどう考えたって、納得のいかない不条理が今の社会にはたくさんあるにも関わらず、それに声をあげられず、黙ることが正しいようにすら、思えてくるような空気だった。誰がこの社会の大きな歯車を回しているのか、見当もつかないのに、どう考えても多くがあまり幸せを感じにくい社会のなかで、構成員として走り続けるしかない感覚があった。でも、もしかしたら、ここから社会がいいものに変わり、自分たちの手で変革できるのではないかという、妙な高揚感が私の中にはある。でも、萌芽にはなろうとも、特効薬にはならない。それを忘れないでいきたいと思う。


考えてみたら、原発場面に出てくる代替案は首都圏の私たちが電気不足をどうするかというものばかりだ。もし、原発がなくなったら、その地方がどのように生活していくのか、という代替案はないように思う。結局、首都圏の目から抜け出せない。生きてゆく糧と危険性を天秤にかけねばならないほどの地方の逼迫した状況も、人間が集中する首都圏との間の悪循環によるものも大きいように思う。


みんなが幸せな国なんて、ありえないのかなあ。

上智シンポジウム まとめ

今日は上智で行われた国際女性デー記念シンポジウム「世界118位の現実:クォータは突破口となるか」に行ってきた。
IPU(列国議会同盟)による世界女性国会議員データによって、世界女性国会議員比率をランキング化すると、日本は118位になるらしい。おっそろしい話だけど。上位にランキングされている国ではポジティブ・アクションとして、クォータ制(割り当て制度)が利用されている。日本でのクォータ制の利用への道、また公民問わない日本における女性の進出について、考えるシンポジウムだった。


・韓国では、2000年にクォータ制を法律に定める。今まで、国3回、地方3回の計6回の選挙がおこなわれており、成立10周年の去年は法律の見直しが行われた。
憲法ではなく法律によって定めている。議席の割り当てという形で行わず、比例代表の候補者名簿の50%は女性にすることを強制的に定めている。小選挙区については30%と定めているが、こちらは努力規定。
成果としては、「直接的かつ明確に女性議員の増加につながった」といえる。
立法活動としても目覚ましい活躍。第16代国会(2001〜2004、このころはまだ比例においても女性比率は努力規定だった?らしい)においては47件の議案提出があったのに対して、第17代国会(2005〜2008)においては106件に増加、その内容も非常に多様化した。
今後も課題はある。比例で入った人たちが任期を1度で終えてしまうことなど。理想としてはこの人たちが今後は選挙区において出馬し当選を目指し、新たな人々が比例に入ることが望ましい。
法制度は効果が早いし、やるべき。信頼できない、選挙に負けそうになると公約を覆す政党にまかせるべきではない!
→韓国の女性が労働デモに携わった「外泊」という映画を見たけれど、その背景にも政界への女性の進出があるのかもしれないと思った。下からの女性運動が成立させた法律といっていたけれど、その辺について言及がなかったので、今後勉強したいところ。
これ(http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200504_651/065105.pdf)とかは背景がちょっとつかめる。運動がこれだけ大きな力を持っているのがすごいなーと思っていたら、韓国は市民運動は政府に日本ほど下に見られることがないとの言及があるページを発見(http://hwm2.wh.qit.ne.jp/fem-yoko/kosyusei.html)。ほんとかなー。気になるところ。
その他の諸外国についても発表があったみたいだけれど、私は遅刻したので聞けなかった…。資料はたぶんこれと同じもののよう。(http://www.gender.go.jp/positive/siryo/po01-5.html


アメリカでクリントンさんが「アメリカには女性が進出するにはまだ見えない天井がある」とおっしゃったが、日本には「見える天井がある」…。(他の方の発表では鉄の天井とか、そもそも床から足が抜け出さない、という表現もありました)現在の民主党において女性の福代表はたった一人。
ポジティブアクションを行おうとすると、男性の側から勝ち上がることへの阻害だという話も出てくるけれど、必ず女性の側からの非難がある。劣勢のスティグマを押されることになるので、自分だけで勝ち上がることが出来るのにと思ってしまうことから。
でも、現在衆議院では女性は16.7%、参議院では22.9%と少ない。せめて、30%になるように外からも声をあげていくべき。


・「雌鶏が時を告げれば、国が滅びる」という言葉がある…。


ポジティブアクションは「暫定的」。将来なくなる法律であるという視点も大事。
コース別採用はいまだに残っている。一般職はなくなったように見えるけれど、総合職という名前の中にも一番下のランクから昇進できない人がいる。巧妙に不可視化されている。また、性別で差別することが禁止されたので、代わりに学歴を理由に昇進を拒んだり、そもそも女性を非正規として入れる場合も増えている。
法律が制定されると、職場は変わる。コース別を敷いていない企業では、男女雇用機会均等法以後確かに働き方が変わった。つまり、コース別がなければ昇進可能ということ。
育児休暇が取りやすい雰囲気にはなった。しかし、とった人がキャリアリセットされる状況は変わらない。出産等で差別してはいけないはず。育児休暇を取ったから昇進できないと女性が諦める状況ではいけない。
保育所も、4月・9月入園と時期を決めずにいつでも受け入れてほしい。柔軟性が足りない。


・日本の学生の政治に対する態度とイギリスの学生の政治に対する態度が全然違う。イギリスの学生はそれぞれ意見を持っていて、日本のようにあきらめていない。
また、大学側が資金援助をする学生連合がある。そこでは学生が休学して運営を行い、デモやシンポジウム、運動などを行う。土壌として大学や社会のサポートがある。
しかし、日本では学内でビラを配るのにもものすごく手間がかかるし、申請に時間がかかる。そういうことに関心があるというと白い目で見られがち。


・マス・メディアにおける女性比率は15%。これを話していた朝日新聞竹信三恵子さんが入社した際には男女雇用機会均等法施行前だったので、1%だった!
しかし、やはり3割いかないと厳しい。彼女は5〜20%は地獄の数字だという。ある程度中途半端に増えても、システムを変えるまでに至らないと、現状の厳しいシステムの中で女性だけが苦しく競争させられるだけになってしまう。その競争自体、バックに妻がいることが前提のものだが、女に妻はいないわけで。
若い世代は我々を幸せじゃないと思っているけれど、幸せじゃない!無理していろいろなことをこなさなければならないのは事実。また、男性と違うことをやろうとする人は大変苦労する。適応していった人のほうが、高い評価をもらえる。違うことをするのは、キツイ。
現在の報道では犯罪報道が多いが、人権報道は少ない。政局報道が多いが、肝心の中身については話されないなど、問題も多いはず。これも女性が多くなれば、変わるのではないか。マス・メディアが変われば、そこから発信されることが共有されるのではないか。


私はシンポジウムが終わって帰る途中に、竹宮三恵子さんの岩波ブックレット「女性を活用する国、しない国」を買ってくると、今までむさぼるように読んでしまった。

「人間は男性も女性も、1日24時間しかありません。ですから、男性や社会が、女性の担ってきた家事・育児などのお金にならない仕事を一部分担しなければ、女性が外で活躍する時間をつくることはできません。また、女性が外でお金を稼いで男性の『扶養する義務』を一部分け持たなければ、男性は育児などの時間を作ることができません。これができて、はじめて企業は『育児や介護や地域などについての新しい知恵』を持つ働き手を手に入れることができるのです」

「これらの不定期な仕事に女性が多い根底には、日本の社会が育児や介護などにあまり税金を使わず、女性の無償労働(アンペイド・ワーク)に依存してきたことがあります。保育・介護サービスなどの社会的支援が乏しいため、女性は、家庭責任を優先できる短時間労働を選ばざるを得ず、パート労働や、登録して仕事がある時だけ働く派遣労働に向かうことになりました。また、均等法と引き替えに、女性の労働時間規制が撤廃されたため、長時間労働の男性正社員を基準にした職場で働き続けることが難しくなったことも、こうした動きを促進しました。
同時に、そうした女性の低賃金をカバーするため、男性は長時間働かざるを得ず、家事・育児などの分担は進まず、さらに女性への負担が増すという悪循環が続いてきたといえるでしょう。」

この辺が印象的。さんざん言われてきたことだけど、みんな苦しいんだぜ!今のままじゃ!感がよくあらわれてると思う。
しかし、私も働かなくては、とはっきり思った。いろいろなことに怒ったりするためには、どんな仕事でもいいから働かなくてはならない。働いてもっと社会を見なくてはいけないと思うし、このままだと私は私のことに対する言葉をもてないままだ。それがわかった。苦しいけど、働く。いろんなことを言葉にして、おかしいって声を上げることだけは忘れずに、でも生活するために、私は私のために、働く。

この運動はこの後も見続けていきたいな、と思った。私も女性の政治家ってことを意識して投票しようと思うし。
グローバル・コンサーン研究所のHPに今後いろいろ情報が載るそうなので、チェックしていこうー。