第3回地域力フォーラム まとめ

今日は農文協の第三回地域力フォーラムに行ってまいりました。このフォーラムを主催するのは、農文協という団体で、現代農業と言う雑誌を出しています。私が何故、そんなおそらく縁のなかったであろう、そういう団体が主催するフォーラムに行ったのかというと、ある雑誌との出会いがありました。
私はこのあいだ、本当にたまたま、ブックオフ農文協の出す季刊地域という雑誌に出会いました。ちょうど、創刊号、内容は野菜の適正価格のお話で、ふーん買ってみようっていう軽い気持ちで手に取った雑誌でした。それがこんなに素晴らしいなんて思ってませんでした。(ブックオフで買ったのが申し訳なかったので、定期購読契約してきました。2冊おまけをつけてくれたし!)
ここで述べられていたのは、農業的なつながりで地方の力を取り戻そうという活動でした。そこには地域コミュニティが多いに絡んでいて、社会的包摂なんて言葉まで登場して、私はとても驚いてしまいました。
地域コミュニティの崩壊とか、地域としての絆の再生の文句は叫ばれて久しいけれど、福祉の場に満ちるその言葉たちは、特に大学で聞くそれらはとくに空虚で、言っとけばいいよね、目標だもんねという、実を伴わないものでした。でも、この雑誌の中身は違って。たぶん、地方のほうが高齢化や少子化や、そういう問題が逼迫していて、壊れる寸前みたいなところもあるんだとおもうのですが(これも都市の驕り?)。でも、それでも自分たちの愛する故郷を、どうしていくか、というその切実さを持って、そして住んでいるところをよくしたいという気迫を持って、いろんな活動をしているひとたちがいるというのは本当にすごいことだとおもうのです。ものづくりじゃなくて、そういう仕組み作りについて、私は日本すごい!地方すごい!と拍手を送りたいのです。なので、地域コミュニティ形成なんかに興味がある人は手に取ってみると面白いと私は思います!


前置きが長くなりました。以下、内容まとめ。
※最初の内山先生の基調講演は遅刻したので、気になる方は季刊地域のついったーからおってみてください。

①被災地は今
岩手県住田町 町長多田欣一さん
・住田町自体の被害は、公民館の屋根の剥落等、大規模なものではなかった。しかし、一心同体でがんばってきた大船渡、陸前高田の壊滅的な状況を目にして、衝撃を受けた。そのため最初の1週間は、「寝ないで頑張れ!」と職員に働いてもらった。1週間たてば、全国から物資が来るから、それまでは自分たちが支援しなくてはと考えていた。しかし人口6000人、1年に生まれる子どもの数が40人の町では物資が十分とはいえず、職員が近隣市から調達してなんとか乗り切った。
・住田町は川上から川下までの林業の一貫体系が強み(植林、切り出しから加工まで)。もともと、木造平屋建ての公営住宅があり、家づくりのノウハウがあった。そのため、それを活かして、「仮設住宅」の早期竣工を目指した。
・しかし、仮設住宅は国の法律によると①被災地になくてはならない、②設置主体が県でなくてはならない、というルールがあった。しかし、事態が落ち着いてからニーズ調査をし、建設するのでは時間がかかりすぎる。そのため、国からも県からもお金はいらないのでやらせてくれと言った。予算、入札・契約等の議会議決を待つだけの時間も惜しかったので、議会に相談したうえで(議会もやれと言ってくれた)、専決処分でおこなった。住田町が被災地を見捨てたとは思われたくない。との思いが強かった。
・工業部材(窓サッシ、断熱材等)の調達が遅れ、建築が遅れたのは今後の課題
・すべて地元材で作った。合板も一切使っていない。すべて杉。
・市町村が仮設住宅を作る時、30㎡を超えると建築確認申請がいる。しかしこれ降りるまでに、また一週間と10日はかかる。そのため、基準以下で建築するしかなかった。これらの許可は県が作る際には必要ない。県と市町村は対等な関係ではないのか?
・木造の仮設住宅というのが当たり前だと思っていたら、全国で初めてのケースだったむしろプレハブで作ろうとすると、リコール運動がおこるに違いない(笑)とのこと。
・もともと、四川・ハイチの時のような大地震に備えて準備があった。それは災害の時に、海外に向けて仮設住宅建設を輸出できれば、日本の材木についても興味を持ってもらえるのではないかという考えがあったからだった。
仮設住宅キットのようなものを準備し、国に対しても相談し、図面作成が完了して三月半ばに話を市に行く直前に今回の災害が起こった。
・今後は、ペレットストーブや太陽光の街灯・温水器・発熱器を寄付したいとの声もある
・作って終わりではなく、今後は避難してきた人々と「いかにコミュニティをつくっていくのか」ということを考えていかなければならない
仮設住宅の値段はプレハブだと400〜500万円。今回は300万円。ただし、今回はどさくさで建築部材が上がったせいもある。それがなければ、250万円で作れると思う。
→すごい対応と決断力だと感じました。感じたこととやりたいこと、できること、そして準備がぜんぶ明確に説明できるから、とってもわかりやすい(しかもユーモアのセンスもあるという!)。すばらしい村長さんだと感じました。なにより、動くのがはやい、緊急時にこれだけ迅速に対応できるというのはほんと中央政府見習ってくださいよ!って感じでしたよ。これを全国の林業地域に輸出したいとおっしゃっていたので、今後どうなるかも気になりますー。

◎までい民宿「どうげ」 佐野ハツノさん
・ここ30年くらいの飯館村はとても元気だった。特に女性。
・男尊女卑の村から、「若者の翼」という取り組みで海外に行った時、「自分たちのクラス地域は自分たちで作る」という感覚にはっとなった。それこそがほんとうの豊かさのはずだ!と思い、がんばってきた。いろいろ外に出ていくようになって、佐野さんのお嫁さんが佐野ハツノさんになったのがとてもうれしかった。ずっと男の人たちが担ってきた、農業委員に選んでもらえた。飯館村20行政区あるなかで住んでいた農業依存度も高かったので、なにより「女にはわかんねえ」と言われるのが嫌で必死に勉強した。3期目には農業会長になった。全国初のことでいろいろ講演にも呼ばれた。昔は貧しいと言われていたけれど、頑張って盛り上げて村全体がよくなってきていたところだった。村に誇りを持っていきているひとがたくさんいた。
・先祖代々の専業農家。息子には跡取りなのだ、と小さいころから言い聞かせ、大学で東京に出てきたときには返ってこないと仕送りを止めると言ったことすらあった。そのおかげか息子は、農業に従事することになった。若者の農業従事者は本当に少なくなっていて、彼のおかげで規模を拡大し、様々な役を引き受けてきた。同時に、資本・設備投資がいるので、借金も大きくなった。息子も独立した家を買い、そのローンもあった。未来に向かって進んできたつもりだった。農業で地域の人たちと頑張ってきたつもりだった。地域ぐるみの民宿をやってきた。みんなに元気になってもらえることを目指してきた。
・3月11日は南相馬にいたが、飯館村地震に強い土地だと言われていたので、あまり不安はなかった。しかしそれでも、屋根瓦が落ちたり、食器が壊れたりした。しかし、沿岸部の津波に比べたら、大したことはないと思っていた。
翌日、南相馬にいたときに広報車が回ってきた。「原発が爆発したので、外出するときはマスクをしてください」と言っていたが、その後すぐにそれはうそだと言われた。しかし、日が立つにつれてどうやらそれは本当だったということがわかってきた。
17日の夜に息子たちの家族は東京に避難した。孫のためにおにぎりをにぎった。しかし、牛や馬のために佐野さんと旦那さんは残らざるを得なかった。学者さんが入れ替わり立ち替わり現れて、危険です安全ですと言っていく。それでも、飯館村にいたいから安心ですという言葉を信じたかった。不安で体を壊すこともあった。しかし、作付の時期も近付いており、農作物は作れるという見の判断もあったので、3月末に息子だけを呼び戻し、田んぼの作付をしようとした3月末、高濃度の放射線値が計測された。郵便局も閉鎖し、新聞も来なくなり、農協に勤めていたお嫁さんも仕事を失った。嫁も息子も無収入だが、それでもなんとかしなくてはならない。息子さんは、単身赴任で那須高原で農業の仕事をすることになった。
借りていた機材や資材や家など借金だけが残っている。私たちは東電からも1円もお金をもらったことはないのに。
私たちはできるだけ飯館村に住みたい。国は避難しろと簡単に言うけれど、私たちがこんなにがんばってきた村を捨てろと言うのか。裸で水の中に飛び込めと言うのか。
・親のことも、苦労を考えると粗末にできない。しかし、やはり寿命のほうが放射線の影響より早いと長く暮した土地を離れたがらない。温泉に行くからと言って、ごまかしながら避難を続けてもらっている。
1日でも早い復興を。誇れる村に戻れることを目指して頑張っている人がいることをどうか忘れないでほしい。
・資料から→「村づくりとは単に所得・人口の増加を狙った「ミニ東京」を目指すのではなく、真に自分たちの力で、豊かな暮らしと地域社会を築き上げるというのが、本当の“村づくり”であると考える。豊かさの尺度は、外から与えられるものではなく自分自身の中にある。過疎地域で最も怖い問題は人口の減少ではなく、村民が自分たちの村を自分たちの手で興そうという「自立・自助」を失ってしまう「心の過疎」である。」
→泣きたいのは、たぶん佐野さんのほうだと思うのだけれど、話を聞いているときも、これをまとめているときも泣いてしまった。飯館村放射線値が高いことはもちろん知っていたけれど、私はこういう風に生きてきた人のことを今まで想像もできなかったのだ。おそろしいことに。牛なんていいじゃないって、思っているわけです。都会の傲慢さで。申し訳なさにどうしていいのか、わからなかった。佐野さんは、ふるさとに戻れるのだろうか。はたして、農業を再開したとして、精魂込めて作られたその野菜は食べられるのだろうか。こんな人があの報道の裏には、たくさんいるのだ。生活をまるまる失った人が、いるのだ。
これが、運営していたというまでい民宿どうげ(http://kankou.vill.iitate.fukushima.jp/kankou/kanko/douge/index.html)だそうです。真手(まて)は「手間暇を惜しまず、丁寧に時間をかけて、じっくりと、心をこめて、つつましく」を意味するという、ことです。

②都市と地方との関係
宇都宮大学農学部 守友裕一さん
・都市と地方、都市と農村の格差
資本主義的経済の一般的な特徴として、競争力強化、生産の効率化のため、地域的分業の徹底化、地域的不均衡の発生、大都市に中枢管理機能、地方都市の現場機能化(生産工場など)、都市と農村の格差、対立の発生などがあげられる。そこで、高度経済成長期に考えられた解決方法が大きく分けて二つ、財政調整制度(地方交付税補助金)と地域開発(工場、事業所などを地方へ移転し、地方の経済力を引き上げる=外来型開発)。その極端な例としての原発立地がある。
内発的発展論は、①地域の固有の資源、技術、産業、文化を見つめ、それらを再評価して、土台として活用すること、②住民自らが学習し計画し、学習の機会が地域での人材は医術の文化的基礎となること、③地域にある第1次、第2次、第3次にわたる多様な産業を評価して、祖語の連携と産業連関を重視していること、④地域の個性を基礎に、環境・生態系、福祉、暮らしやすさなどを総合的に考えること、⑤学習を基礎とした住民の主体的参加は、それぞれが潜在能力を発揮し、人間あったつ、豊かさへの道であることを考えていることがあげられる。
※結城登美雄 「よい地域」であるための7つの条件
①よい仕事の場を作ること、②よい居住環境を考えること、③よい文化を作り共有すること、④よい学びの場をつくること、⑤よい仲間がいること、⑥よい自然と風土を大切にすること、⑦よい行政があること
・差別としての原発立地があった。浜通り福島県の「チベット」だった。その「チベット」からの脱却をはかるため、浜通りを「仙台のように!」のスローガンが掲げられた。
・都市へのヒト、モノ、カネの流出があるからこそ成り立つ原発立地。大都市住民の“NIMBY”思考(NOT IN MY BACKYARD)=必要だけれど自分たちのところに作りたくないものを「外に」持っていく意識…。電気は東京へ、原発は福島・新潟へ、放射性廃棄物処理は青森へ、最終処理場案…北海道×、四国×、はてはモンゴルへ…?
原発は「トイレなきマンション」と揶揄される
原発は計画段階から地方・農村を差別し、運転段階でさらに大都市と地方・農村を分断する→そうしないと原発は作れない…(福島浜通りがもし「仙台のように!」なったのならば原発は増設できないはず)。電力会社はかつて原発は地域発展の起爆剤で、そこから原発が無くなっても大丈夫な経済を作り出せる「自発的発展サイクル」が生まれてくるとしていた。しかし、それは実現せず、「仙台のように!」ならなかったからこそ、双葉町議会は福島第一原発7、8号機増設の決議を行った(電源三法交付金の「麻薬神話」)。しかしもちろん、地元で働く電力会社の人のなかにも、一緒に地域づくりを考えていた人もいた…。
→私が前回ブログで書いたことまさに…。地方と都市の関係の再考はなされるのだろうか?この震災により、東北地方からは若年層が相当数流出したと思う。今後の農業経営等に影響が出てくるのだろうか?


山形県金山町 暮らし工房 栗田和則さん
・自分にとっては「都市と山村」ではなく、「山村と都市」。山村の未来は都市との関係にある。都市の優越感のようなものを感じる。圧倒的多数の地方があって、都市はそれを踏み台にして大きくなってきたはず。はたしてこの構造を変えてゆけるのだろうか?本来は都市と地方両方が健全に成り立たねばならないはず…。


NPO法人かさおか島づくり海社 守屋基範さん
笠岡諸島は瀬戸内海の真ん中にあり、南三陸から1300㎞、15時間かかるところにある。もともと「ぼうさい朝市事業」という事業を行っていた。これは防災を絡めた、全国20あまりの地域が加盟する全国ネットワークをつかった事業。救援物資と称して、特産品を送ってもらったり、炊き出しと称して地方の郷土料理販売などを行うなど、人が来て顔をあわせる交流をしてきた。このつながりがあったので、南三陸を無視できないということになり、商店街・社協を巻き込む支援につながった。
・初期は被災地では物資が送られてきていたが、仕分けをする人も足りていなかった。職員はできないために被災者自身が行っていた。そこで、被災地に1番近かった山形県の加盟都市に物資を集め、直接南三陸に届けることにした。だんだんと日にちがたってくると、与えられるだけではなく選びたいという被災者のニーズをよく聞くようになった。そのため、地域通貨(タコ…?)を発行して、それと品物を交換するという工夫をした。売り上げはすべておいて帰り、空になったトラックに現地の品物を仕入れて、また戻ってから地元で売ることで資金を作っている。


③これからの暮らしへ
◎片品むらんてぃあ 代表 桐山三智子さん
・5000人の村で1000人の被災者を受け入れることが村長の英断により決まった。→mixiやネットで「村長最高すぎる!」と若者層が相当盛り上がった。郷土愛の高まりから、若者ができることがあるはず!とボランティア団体「むらんてぃあ」を発足した。連絡もメーリス!情報を流して返信してきた人に担当してもらう。
・見えてきたのは、生活弱者の存在。若者は自家用車等で逃げているため、片品村に避難してきたのは高齢者や生活保護者、子ども連れなどの生活弱者ばかりだった。片品村は医療が弱かったため、通院のための送迎なども必要だった。
・1カ月の予定だった受入れが3カ月に延長され、むらんてぃあにも正式に予算がついた
現在は事務局4名で、病院搬送等を行う村の巡回バスのドライバー、南相馬の方が集まれるたまり場の運営の雇用にも至った。
・これらを今後の村づくりにどう生かすのか?が課題。
→若い人中心の支援。メーリスで情報を流すっていうのは、ならではかな、と思った。新しいつながり、新しい支援につながる?


◎長岡地域復興支援センター 栃尾サテライト (財)山の暮らし再生機構 杉崎康太さん
・地域復興支援員として働いている。地域復興支援員とは、2004年に発生した新潟県中越大震災の復旧・復興において(財)中越大震災復興基金が、震災で被災した地域のコミュニティづくりや、今後の集落づくりの活動支援を行うことを目的に設置。2007年12月〜新潟県中越地域の各地で地域復興支援員が活動をはじめる。現在は中越地域全体で50名ほどの支援員。主な業務は地域住民と考えながら活動し、行政との連携を調整すること。杉崎さんは2008年4月より新潟県長岡市栃尾地域において、スタッフ3名で、20〜100世帯くらいまで、およそ10集落で集落づくりの活動支援を行っている。ブログ(http://ameblo.jp/totio-satellites/)あり。
・震災をきっかけに、中山間地域の抱える課題が顕在化する。山間部を中心に人口や世帯数の減少が急激に加速、集落内の婦人会・老人会など、様々な既存組織が解散し、コミュニティ力の衰退が進み、集落の10年後20年後の生活不安が増大した。また、震災によって、若年層が町場流れてしまったことも原因。50世帯が25世帯に半減した村もあった。若い人がいなくなると、集落活動維持が難しくなってしまう…。
・支援内容は、「ここに住んでよかった」を探ることがいちばん大切。10年後20年後に、今のことに対して「あのときはよかった…」と思われるような支援を。
中越大震災の復興基金によって支援員が設置されているため、活動時期が有期的。活動の継続性や進展がどうなるかどうかが今後の課題。(復興基金は年間60億円で10年間。初めの5年はハード重視であったが、5年はソフト面重視にシフトチェンジ。コミュニティに対して、復興デザインを考えると言う活動が行われ、100近い集落にお金が流れている。ただし、既存の強い組織、土建屋さんがでてきたような地域はワークショップが上手くいかなかったりもしていて、成功率は半々くらい。県がもっと、成功例をアピールしていくべきでは?)
→コミュニティ再生のために正式に支援員がいることを今回初めて知りました…。これは今回の震災後にも生かせるのではないだろうかー。しかし、支援員が外部からの流入であること、そして撤退後にも維持されるのかというところが今後気になるところです…。


長くなりました。大体のまとめなので、精度が欲しいひとは季刊地域のツイッターアカウントが講演当日に内容をほとんどツイートしていましたから、そちらを参考にしていただけると幸いです。