沖縄と福島とわたし

私には、尊敬する沖縄の友人がいる。
本をよく読み、よく消化し、それを圧倒的な語彙力と文章力で表わすことができる、賢く、やさしい人。高校生の時からの私の憧れである。(全然届きやしないわけですが!)


私は彼女と友達になるまで、沖縄という土地について何も知らなかった。
知っていたとしても、それは豊かな自然や温暖な気候や、青い海や空や、優しい人たちのいる穏やかな光景しか、知らなかった。ちゅらさんに出てくるようなおばあが幸せに長生きしていると思っていた。
だから、彼女がアメリカ軍基地の話をしたとき、私はびっくりした。
知識としては、もちろん知っていた。沖縄には全国の7割を占める米軍基地がある。それを、初めて学んだのは小学校の時のはずだ。
でも、そんなのは知らなかったに等しい。その周りで暮らす人々の生活を、全く見ないふりをしてきたのだから。知らなかった自分も、知ろうとしなかった自分も恥ずかしかった。


転載の許可をいただいたので、彼女の去年の4月の日記を見てほしい。

普天間基地県内移設に反対する県民大会に参加した、ウチナーンチュの方の日記
です。
掲載許可をいただいたので、引用したいと思います。
(以下引用)
ここ数週間、この問題を軸に日記等で書いたり、他の人の日記にコメントしたりと、「普天間基地」の問題を自分なりに考えてきました。
そこで直面するのは本土の方々の基地意識ってのはその程度かって事です。
沖縄県はお金をもらってやってるのだからいいじゃないか。」
沖縄県がわがままを言うから徳之島が困っている。お前らにモラルはないのか。」
「他のアジアの国々に比べれば全然安全なんだから文句言うな。」
「お前らの安全は米軍基地によって保たれているんだから、いいじゃないか。米軍がいなくなれば、すぐに中国に占領されるんだ。また、日本が危なくなるじゃないか。」
「基地で経済が成り立っているのに、なくなったらどうするつもりだ。」
等など・・・。
他にも色々ありましたが、全部書くわけにはいかないのでこれくらいにしておきます。
書いてる人は自分の意見は素晴らしいものだと思っているのでしょう。
しかし、沖縄には普天間基地はいらないんです。
普天間基地が外国等からなんと呼ばれているかご存じでしょうか。
「世界一危険な基地」
それは、住宅街の真ん中にあることによります。
沖縄県宜野湾市という所にありますが、住宅地です。
考えてみてください。
あなたの住んでいるその街の上を手が届くような場所をヘリや、爆撃機が飛び交っています。
実際にヘリが沖縄国際大学に墜落したこともあります。


この問題を解決するためには、簡単です。
どこかが受け入れてくれればいいのです。
簡単な話でしょう。
これを言うと「お前らはそんな危ないものを他に押しつけるのか」等と言う人がいます。
あなた方が今している事はそういうことです。
戦後何十年と我々はそれに耐えてきたのです。
日本にある米軍基地の約75%が沖縄にあります。
こんな小さな島にです。
信じられますか。
今日県民大会で、壇上に上がった普天間高校の生徒がこういう話をしてくれました。
『長い長いフェンス。私はここが一体どこなのかわからなくなりました。フェンスに囲まれているのは米軍基地?それとも私たち?』
それくらいの面積を占めているのです。
沖縄県の16%は米軍基地です。
信じられますか。
基地で成り立った経済なんて事もよく言われますが、実際に変換された土地とそうでない現在の基地どっちが潤っているか。
変換された土地での収入は基地による収入の175倍です。
沖縄県民はもう立ち上がるだけの力を持っているのです。
基地問題で揺れて、反対すればストップされてしまう国からの支援。
つまり、沖縄には基地に賛成しなければ国からの補助金やその他もろもろのお金は入ってきません。
脅迫じゃないでしょうか。
今回仲井眞知事が参加を迷ったのも政府からの電話でした。
『基地受け入れにあなたが反対すれば、沖縄への補助等はすべて打ち切る。』
なぜ沖縄だけそんな仕打ちを受けなければいけないのでしょうか。
県民が望んで入ってきたものでもないのに。
勝手に戦争をし、勝手に沖縄に基地を置き、それなのに沖縄に対する配慮や感謝の念は一切日本国民には見られません。
もちろん全員が全員そうでないことはわかっていますが、ここ数日の日記を拝見した方々はそうでした。
沖縄の犠牲の上に成り立つ日本の安全。
安全はタダでは手に入りません。
それを日本国全土で賄うのが普通の感覚なんじゃないでしょうか。
沖縄だけに多くを押しつけて知らぬ存ぜぬで通せる様な話ではありません。


沖縄県民の民意。
とにかく普天間だけでもまずは除去してくれないか。
何のために辺野古沖を選んだのか。
少なからず、平和に近付くからじゃないのか。
普天間の平和への意志があるから県民はずっと辺野古案を受けれてきた。
しかし、現在の政権が『最低でも県外』を主張して沖縄の民意をかき乱した。
それを守ってもらいたいって思うのは悪いことでしょうか。
なぜ、決まった事をひっくり返されて代替案を要求されなくてはいけないんでしょうか。
日本国民にはもっと真剣にこの問題に対して考えていただきたい。
何度も言わせていただいていますが、沖縄という小さな島でこれ以上県民同士を争わせないでください。
心よりお願いします。


沖縄は日本の道具じゃありません。
国のためならある程度の協力をしますが、決して道具扱いをしないでください。
(引用終わり)
この文章を紹介してくれた、マイミクのきしめん太郎さんはこう言います。
「ここで僕が何か書かなければ、たとえば僕が名古屋や広島の友達と一緒に沖縄に遊びにでも行った時に、沖縄の人々と心から楽しく泡盛を飲んだり歌ったり笑ったり、そうしたことが出来なくなったりするのでは、と不安に思いました。」
わたしも、内地の人たちと、楽しくお酒を飲んだり、笑ったり、したいです。

2010年4月28日 ちらさんの日記(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1473185165&owner_id=10855926)より



沖縄という土地は、ずっと苦しんでいる。沖縄の県民の中にはこの問題がずっと、居座っている。
去年の今頃、この国は普天間基地の移設問題でおおいに揺れていた。鳩山首相は海外移設を目指す、最低でも県外に移設すると表明した。
けれど、その言葉が実現することはなかった。基地は必要であるという前提のもと、政府対沖縄県でも、国民同士においても、その是非が深くまで話し合われることはなかった。沖縄の人々にあまりに失礼な態度をとったことに対して謝罪がなされることもなく、普天間基地辺野古に移設されることに、なってしまった。
それが決まる直前、4月末に宮城県荒吐であったロックフェスティバルで、私は沖縄出身のCoccoのライブを見た。彼女は折れそうなほど細い体で宮城県の遅い春の話をしてから、ぽつりと「5月が終わる時に、この日本という国を、まだ信じられたらいい」と、言った。
私はそのことを思い出すたびに、胸がぎゅーっとなる。絶望しなかっただろうか、私たちの決断に。あまりに他人事でしかない結論に。謝っても意味はないし、ましてや私は建設的な解決案は提示できないし、無自覚に無遠慮に恩恵を被っている人間だ。彼女に何も言えるはずがないけれど、でも、涙が止まらない。
知らなくて、ごめんなさい。無視してきて、ごめんなさい。
Coccoが、あっちゃんがあんなに愛している島に、私の友人が手放しでほめちぎるあの島に、ふるさとに、ずっと基地があることを、わたしたちはすぐに忘れてしまう。どんな思いで、我慢してきたのか、しているのか。それを無視して、美しい島だとほめたたえ、おいしくて素敵な部分だけむさぼってゆくわたしたち。どう見られているんだろう。


私は、色んな人が指摘している通り、福島の問題を見たときに、沖縄の基地の問題とそっくりだ、と思った。
何か巨大な取引や利益や欲望や恩恵の前に、私たちはあまりにも簡単に、見知らぬ誰かに汚い部分を押しつける。しかも押し付けられるのは、主に産業のない地方である。
お金が入ってくる、雇用ができることに賛成する人も大勢いる。逆に、土地の環境を危険性を加味して、反対する人も大勢いる。そうやって地元の人々は巧妙に分断され、そのうち雇用も生活もどんどんからめとられ、無視できないくらいに両者はくっついてしまう。抜け出せないほどに。それが正しいのか、そうじゃないかはわからない。ただ、そういう苦しみや葛藤を首都圏の私たちの多くは知らない。もしくは、見ないふりをする。授かっている恩恵があるにもかかわらず、彼らが被る数多の危険性について考えることもほとんどないように思う。
首都圏に住む私たちはものわかりのいいふりをして、沖縄にはりめぐらされたフェンスも、国内に54基ある原発も、日本という国の発展や安全のためには「犠牲」になるしかない、と言ったりする。しかし、「犠牲」になるというのは、自分以外の誰かを指しているだろう。雇用も産業もない土地に古くから住む人々や経済基盤が脆弱で、仕事を選べない人々。名もなき、形なき、誰か。
そして時には、それらを選択した彼ら自身が悪いとすら責めたりする。仕事があるだけありがたいじゃないか、代わりにお金をたくさんもらっていたんじゃないかとすら、言ったりする。
そういう感覚が、私たちには(すくなくとも私には)あったように思う。


私個人は、もう原子力を使い続けるのも、基地を沖縄に置くのもやめてほしい。
福島のことに関して言えば、原発労働者を探してくる手段や方法はあまりに陰湿かつ悪質だし、今回のことで判明した通り、結局暴走したときに止める手段を今の人類は持たないらしいからだ。
なにより、彼らからふるさとを奪った罪はなによりも重いと、私は思う。


しかし、私には、原発をもし廃止したとして、いったい代わりをどうするのか、というはっきりした答えは正直わからない。沖縄の基地にしても同じだ。
みんなで我慢すればいいじゃない、と簡単に思うけれど、私だって今こうやっているように、パソコンを使って文いろんなことをするし、就職したら仕事だってするし、携帯電話だって電子レンジだって使うし、この国の暑さには耐えられないから、冷房をつける。
火力や水力を作ればいいじゃない、というのもまた、正解ではないらしい。土地の人々を分離させ、生活を破壊することにおいても、その危険性においても原発と大差のないものだから。
自然エネルギーでいいじゃない、というのも難しい。今後の開発如何はわからないが、現状の自然エネルギーでは私たちの生活は、おそらくまかなえないという。
(息苦しいほどの、行き止まり。)


ただ、方法なんてわからないけれど、私はもう誰かからふるさとを奪いたくないと思うのだ。偽善だろうか。エゴだろうか。


あなたは、どう思いましたか。教えてくれると、うれしいです。


Cocco アメとムチ:沖縄と辺野古六ヶ所村





※追記

私たちは、どうしたらいいのか。私は、どうしたらいいのか。書いているうちによく分からなくなってきた。
私はおそらく、原発反対の意味合いの中に社会変革を見ている。この出来事を契機にこの社会は変わるんじゃないだろうか、もっと住みよいものになるんじゃないだろうかという夢を見ている。だからこそ、運動し行動を起こしている人々をまぶしく、好ましく思う。今まではどう考えたって、納得のいかない不条理が今の社会にはたくさんあるにも関わらず、それに声をあげられず、黙ることが正しいようにすら、思えてくるような空気だった。誰がこの社会の大きな歯車を回しているのか、見当もつかないのに、どう考えても多くがあまり幸せを感じにくい社会のなかで、構成員として走り続けるしかない感覚があった。でも、もしかしたら、ここから社会がいいものに変わり、自分たちの手で変革できるのではないかという、妙な高揚感が私の中にはある。でも、萌芽にはなろうとも、特効薬にはならない。それを忘れないでいきたいと思う。


考えてみたら、原発場面に出てくる代替案は首都圏の私たちが電気不足をどうするかというものばかりだ。もし、原発がなくなったら、その地方がどのように生活していくのか、という代替案はないように思う。結局、首都圏の目から抜け出せない。生きてゆく糧と危険性を天秤にかけねばならないほどの地方の逼迫した状況も、人間が集中する首都圏との間の悪循環によるものも大きいように思う。


みんなが幸せな国なんて、ありえないのかなあ。