ごはんのタネ

タイムラインをながめてたら、こんなツイートを見た。


看護学校戴帽式を見たことに関して。
「式自体はカトリックの堅身式のようなもので、形だけじゃないかと批判もあり、近年実施しない教育機関が多いと聞く。
もちろんそれも一理あるのだが、神や人に仕えるというのは大変な覚悟のいることであって、その覚悟に形を与える場があってもいいと個人的には思う。」



このことについて、ずっと考えている。
ひとまず、神に仕えるというそれについては、わたしは何も言うことができない。信ずる宗教は生きていくには必要で、もしそのひとが望むなら、わたしは何も言わないし、言う権利もない。
でも、その次は違う。「人に仕えるのは大変な覚悟のいることであって」、というのはとてもとても、とても、もやもやする。

わたしは医療職じゃないけれど、福祉分野で新卒から働いてきた。仕事はなんですか?と聞かれて、福祉分野で働いていますというと、たいていの場合、「えらいね」「すごいね」って切り離されて、みんなからちょっとずつ遠ざけられてきた。(ようにいつも感じてきた。)

この職業を選んだのは何故だっただろう。たぶんいくつもの理由が重なっていて、わたしにもよくわからない。でも、はっきりと言えるのは、「わたし自身が矜持を持ってこの職業を選び」、「わたし自身のために仕事をしている」ということだとおもう。
人に仕える、人のために尽くす、人の役に立ちたい、というのはわたしのなかにもある感情だ。この職業を選んだ理由のなかでゼロとは言い切れないだろう。この人に幸せになってもらいたいと、目の前のひとに出来る限りのことを、いつも考えているつもりだ。でも、それを原資にして走り続けてはいけないということを、学問として、わたしはずっと学んできたのだと信じている。人のためにというお題目は自分が正しいと思い込んでしまいやすい魔法で、そのために何かを踏んでも気がつかなくなるし、対価として人の感謝や尊敬を欲してしまう。だから、わたしたちは自分の原資を、走り続けるガソリンを、別のところから供給したほうがいいと個人的にはおもっている。もちろん、ひとのために仕事をすることが悪いことだとは思っていない。ただ、相手にのめり込み、自分を相手に移しこんでしまうことは、わたしたちを壊し得る一因になりうる。外部の人間として、その人自身ではない他人として、相手にできるだけ考えて考えて決断してもらい、決断したことを尊重しながら、できるかぎり手伝えるように、他のひとに手伝ってもらえるように、せねばならないと思っている。

それは他の人から見たら、「ひとに仕える」ことなのかもしれない。でもね、それは最早わたしたちを拒絶している言い方に等しいのだと、わかってほしい。たしかに、ひとのために働いている。でもそこに何か、わたしたちを遠ざける、切り離されるような感覚と、矜持を「優しさ」なんて曖昧なものに丸め込む乱暴さを感じて、わたしはやっぱり黙っていられない。人に仕えてるんじゃなく、自分のためにやっていることです。自分の任務のために、矜持のために働いている、またはお金のためにやっていることなんです。
いやほんと自分で言っといてほんとそうだけど、だいたい、働いていかねばならない一番の要因はお金だ。たぶん、他の仕事してる多くの人と、そう変わらない。よくある職業のひとつとして、ご飯を食べていく手段として、働いている。なのに、わたしたちにばっかり覚悟を問うのはなぜなのか、考えてみてほしい。
お金だっていいはずでしょう?ほんとは、お金のためにその職業を選ぶことはいつだって何も言われないのに、わたしたちだけが身の潔白を問われるのは何故なんだろう。
戴帽式だって無くなったのはお金のこともあるだろう。衛生的に好ましくないとして、ナースキャップは死んだのに、儀式のために購入を強いられるなんて、まるで本末転倒ですよ。


なんだろう、なんだかうまく言えている自信がないけど、言いたいのは「自分のために仕事してるんであって仕えてねーよ!そんでもって飯のタネで、ただの仕事だよ!ハードル上げんじゃねーよ!」ってことです。


わたしたちを、ただの労働者にしてください。大変なお仕事をしている、えらい人間に祭り上げないでください。











ケアワーカーが働いてる時に言われる「えらい」への気持ちがすんごいよく表されてて、雁須磨子せんせいへの憧憬が深まる短編が含まれた一冊




体の贈り物 (新潮文庫)

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わたしのバイブル。