就職活動というものについて、感じたこと   その1

就職活動が、ひととおり終了したので、いろいろ個人的に感じたことを書いておこうと思う。私自身が当事者であるうちに発言できることを発言しておきたいので、その記録のためにも。

はじめに言っておきたいのは、私はよく言う「就活で私は大人になった」とか「成長した」的な感想をまったく持てなかったということ。むしろ、苦しいばっかりだった。大人の社会のほころびが私たちのスタートラインの前にすら壁を作っていて、しかも誰も改善する気もないということ、それなのに、色んな大人はむしろ私たちこそをビジネスの相手にしているんだ…世知辛いにもほどがあるよ…というのを感じたせいもある。大人になるっていうか、うわーなんとかやりすごすしかないなーこれはと思いながら、なんとかあっぷあっぷしていた。成長も何もない。いろんなことを考えはしたけれど。



※たまりたまった鬱憤および、興奮のしすぎで文章が長くなってしまったのでいくつかにわけて書きます…。



・選ばれるということ
私が就職活動をやってみて、一番感じたのは、「選られねばならない苦しみ」だ。
やってみてわかったけど、みんな、ある程度はこの就活という仕組みについておかしいなと、感じている。話した感じ、私の同級生はたいてい「就活爆発しろ」みたいな子が多かったように思う。宗教的に盲信してしまう子もいたようだけれど。
それは、めんどくさい過程が多すぎること(たとえば、手書きを強要されて間違えたら最初からやり直しになってしまう、写経の修行かっていうエントリーシート)。選考過程の長さ(私は受けていないけれど、民間、しかもメガバンクあたりを志望している友達の憔悴具合ったらなかった。7次選考まで行って落ちたりするらしい。どういう仕組みなんだろう)。絨毯爆撃のように就活で自分の予定が埋まってしまうむなしさ。また、学生であるはずなのに、社会人のマナーとやらにのっからざるをえなくなること。あげたらきりがないように思う。また、それらは言われつくされてきたことでもあるだろう。
でも、私が苦しかったのは、それに文句を言うことが出来ないということ。私たちは選ばれる側で、選びとられる側だ。何かを言えば、立場が不利になることも大いにありうるわけで、そうなると口を噤むしかなくなる。インターネットも監視されている可能性があるということを鑑みると、私たちにできるのは居酒屋でくだをまくくらいしかない。
だから、結局どうしようものないのだと、あきらめる。通過儀礼であって、今を我慢すればこれから、自分には降りかからない火の粉だからかもしれない。理由はたくさんあるだろう。でも、いろいろ、理不尽だと感じたことをどうにかやり過ごした人が大勢いるだろうと思う。それが社会なのだと自分を納得させたり、中に入ってから変えてやろうと考えたり、その思いや覚悟は人それぞれだと思うけれど。だからこそ、この仕組みは不思議だ。得してるのは某りくるーとくらいなものじゃないかしら。
そして、そのうえ向こうの評価のポイントが私たちにはさっぱりわからないことも苦しみの原因じゃないだろうか。フィードバックはなく、あるのはもっともらしい成功神話だけ。だからたとえ、もしそこにどんな学力や容姿や性別のフィルターがあっても、見えないブラックボックスの中で行われるから、私たちにはわからない。もしそういった傾向を最終的に残った内定者から感じ取ったとしても、企業側さえ違うと言ってしまえばそれはなかったことになるだろう。
そうなると、私たちはなるべく、落とされる点、つまり向こうが不愉快だと感じる(と自分たちが思う)点をなくそうと躍起になる。それは、服装だったり、化粧だったり、髪型だったり、ESや面接の問答だったり、面接の入退室の仕方だったり、する。それらはコミュニケーション能力と、まるで超能力のようにわけわかんない呼ばれ方をしたりもする。つまり、どこに爆弾があるのか分からない。それが果たして本当に爆発するのかもわからない。そういうなかで、私たちはびくびくしながら予防線を引いて、無難であろうラインを探る。それはいつのまにかマナーと言い換えられ、内部でだんだん強化される。そのうち、常識と言われたりもする。だから情報や、コンセンサスだと思われているものを自分がはずさないように、いろいろな噂話に過剰に敏感になって、2ちゃんねるを見てみたり、楽天みんなの就職活動日記に登録してみたりする。
私も間違ってはいけないルールと、守らなければならない決まりごと、そして自分の考えていることがぐちゃぐちゃに混じって、その中でがんじがらめになる感覚が常にあった。おかしいと思うのに従わなければならないほど、むなしいことはない。
私たちの側に選択肢がたくさんあれば、向こうがとった態度はそのまま企業のイメージに直結して、切り捨てることもできるのだろう。しかし、自分が受けることのできる企業が少なかったり、選考の過程に乗っかっている会社が減ってくると、どうだろう。我慢するしかないようにおもう。ストレス耐性を見るためとはいえ、失礼な面接を私たちの側から積極的に「圧迫面接」などと言い換えて許容し、どうってことないあり得る話だとしてしまうのはなんともおかしな話だと思うんだけれど。ううーん。

つまり、自分にできることは、向こうが魅力的に思う自分を妄想することだけだろうと私は感じた。
落ちた理由がわからない。受かった理由もわからない。なのに、順位と得点がつく。
しかし、選ばれねばならない。誰かに、どこかに選ばれねば、「社会人」とすら読んでもらえないのだから。ここまで背負ってきた親の期待や教育費やそういうものが私の目の前にはずっとちらついていた。焦る気持ちもものすごくわかって、かなしかった。


・就活のために「生活」してきた?
私は、私のやってきたことや考えてきたことや、人生におけるもろもろが就活の中で簡単にストーリーをつけて消費出来てしまうことが気持ち悪くて仕方なかった。ボランティア、勉強してきたこと。部活動。バイト。
私だってあぶれたくないから、耳触りのよいことは小賢しく面接のネタにした。でも、同時に空しかった。純粋に、その時は誰かの役に立ちたいと思ってやったことでも、結局自分のために利用したようにしか思えなくなってしまった。就職のために、生きてきたわけじゃないのに、だんだん就活の中に自分の人生が取り込まれていくような気すらした。こわかった。というか、ちょーきもちわるかった。
別に何かをするのに、理由なんてなくって、わあどうにかしたいって思って動くことがあるのに、就活はそういう曖昧さを許してくれないという感覚が私の中にはある。すべてに理由づけをして、いい経験にした完成形を発表すべきだという強迫があるというか。受けているところによるのかもしれないけど、だからこそなんか息苦しかったなあ。


とりあえず、今回はここまでで。