私のこだわり宣言 トタンがセンベイ嘔吐した

こだわりと云う言葉が突然やってきた。齎したのは奇怪な三人組である。
そのとき私は多くの問題を抱え、自らの静脈瘤であろうか動脈瘤であろうか、どちらにしろできれば意識したくない自らの、ははは、ネガティブな瘤なんてことについて考えたくなかったというか考える余裕なんてちくともなかった。
でもその唐突な三人はそんなことを言ってきて、「帰ってください」なんて言うのはなまやさしい、「ゲラウッフロムヒヤ」っていうのは英語だし、「殺すぞっ、こらあ」、っていうのは脅迫罪に問われるし、どうしたらいいのかなあ、と悩んでいるうちに、というか、いまも悩み続けているうちにこんな冊子が出ることになってしまって困惑している。
けれどもそうなってしまったものは仕方なく、また静脈か動脈か知らんけれども瘤があることには違いなく、専門の医師に尋ねる、ちゅうことないけど、中原中也やってます、みたいな専門の詩人の書いたの、ははは、読んだら完全にアホで、おまえら死人に口ないのええことに好きなこと抜かしとったら詩ィの神サンの罰当たんどみたいなとこあって、そんな三人って、東方の三博士ではないようだし、もちろん自分が中原界のひとりごなんて不遜なことは古今東西すべての神仏にかけて思わないし、中原中也を瘤、こだわり・こわばり、というのも失敬だと思うし、それで引き受けた。
番組には限界があります。
テレビの番組は大体がトホホです。作るのはタイヘンだし、見るのは拷問です。
しかれども、ははは、しかれどもそのなかに一瞬の本当のことが、その本当と云うのは、宝石的な本当ではなく、うふふふふふふ、醜悪な、できれば見たくない本当なのですけれども、それが見える人にはときどき見えます。番組はディレクターのものです。詩は詩人のものです。神のものは神のものでシーザーのものはシーザーのものです。で?ものとはなにか?それを問うて問うて死んだのが中原中也です。いずれ死ぬ。絶対に死ぬ、中原と同様に人間で、そしてパンクから人生をスタートした私はそのように嘔吐しながら死にたいと念願しています。うほほ。それがわたくしの、こだわえい。ははは、で、はは、ございます。ご機嫌よう。と言った瞬間、ぶわあ。空間に時間をやっぱり嘔吐。トタンが食ったセンベイを嘔吐。やっぱり俺はアホやった。