平成雑記帳 高村薫 第173回  (AERA 11‘1.31 NO.4より)

「いま、学生の多くは学問に勤しめているのだろうか。まもなく受験を終える若者たちに考えてもらいたいことがある。」
厳冬期に行われるセンター試験の日は、毎年雪模様になる。いや早い人なら幼稚園に入るときから受験に追われてきて、18歳の若者に成長したいま、ようやく迎えたラストスパートであれば、当の受験生たちは雪など眼中にないだろうか。
国はこの十数年、詰め込み教育が批判されれば、ゆとり教育へ転換し、それで学力が低下すればまた一転して学力重視へとめまぐるしく方針を変えて、子どもたちを振り回してきたが、国の定めた指導要領がどうであれ、当の子どもたちは、ともかく与えられた課題にそれなりに懸命に向き合ってきただけだろう。同様にセンター試験も、当の若者たちにとっては通過しなければならない課題のひとつに過ぎず、粛々と乗り越えてゆくだけなのかもしれないが、少子化にともなう大学全入時代のいま、大学へ何をしに行くのかについて明確な意思をもたないまま進学するケースも増え、学生の多くが自由に学問に勤しむどころか、今度は就職に有利な学科や資格を求めてさまようことになるようである。もっとも、これも若者たちが従順になったというよりは、経済規模が収縮し続けるこの国では、いまや従順でなければ就職活動一つできないというほうが正しいのだろう。
かくして、晴れて受験に追われた十代を脱しても、自分の自由な意思とはほど遠く、ひたすら社会の情勢や景気動向を眺めながら、社会の敷いたレールの上を走り続けることになるのだが、間もなく受験を終える若者たちには、ぜひ考えてもらいたいと思う。自分は、少しでも就職に有利な立ち位置を占めるために大学に入ったのか。大学とは、そもそもそんな場所なのか。社会人になる前に、最後に十分に学問をする場所ではないのか。いくら不況期とはいえ、国の未来を担う学生たちが、これからいよいよ専門課程に入るという大学3年の春から就職活動を始めなければ、とうてい内定にこぎつけられないような社会は異常ではないか。そして何より、こうした異常事態をつくりだしているのは、当の企業ではないのか。学生に十分に学問をさせないような状況をつくり、実際十分に学問しないまま卒業してゆく学生をわざわざ青田買いするような日本企業に、いったい未来があると言えるのか。また、そんなふうにして学生を企業の都合に合わせて送り出す大学に、大学としての存在価値はあるのかーーー。
折しも、経団連が採用活動の開始時期を二ヶ月遅らせる決定をしたが、大勢に影響はない。これから進学をする若者たちは、三年生の春には就活スーツに身を包んだロボットになっている自分を、一度想像してみてほしい。仮に一万人の学生が、そんなつまらない未来を拒否して立ち上がれば、この国は変わる。座して政治家や企業に期待するのは、学生の本分でないことを知るべきである。ちょうど遠いチュニジアでも、長年の独裁政権を崩壊させたのは、学生たちだったと聞く