旅行記後篇 広島編

鳥取から広島へは青春18きっぷをつかう。初。

ただ私は時刻表を上手く読み込める自信がなかったので、エキサイトの青春18きっぷ検索を使って電車を調べたため、一本でも電車を逃すと移動日夜のライブに間に合わないという、超行き当たりばったり行程。こわかった。ほんとにこわかった。

8時間くらい電車に乗っていたのだが、雰囲気を出すために内田百輭の阿呆列車を持って行ったのでそれを読んだり、ウォークマンモーサムトーンベンダー(旅行に来た時の個人的鉄板アルバム「The Story of Adventure」)、久石譲天然コケッコーのサントラ聞いたりしていたら意外にすぐに過ぎてたのでびっくり。

移動日は昼間は移動のみ、夜はお目当てのライブだったのでそれを見終わってからごはん食べて寝たら1時でした。

しかし、昼間また広島駅から路面電車代をケチってホテルまで歩き、大変な目に会ったのは内緒です。みなさん、公共交通機関は敵ではありません。あなたの味方なのです!

翌日は10時くらいに広島市内の宿を出発。荷物を駅に預けて、路面電車広島市内を観光することに。

しかし、外人が多い。びっくりするぐらい。私が外国人だったら、京都か東京(しかも秋葉原)あたりを喜んで観光しそうな気がするので、意外。

しかし、なにしに来ているのだこの人は、と思うあまり、外国人の青年をじーっと凝視しすぎて、いつお金を払うの?と聞かれてしまうという悲劇発生。そして、自分がそれを英語で説明できないことに唖然。りーちゆあですてぃねいしょん、ゆーぺい。と必死に伝えるも、?という顔でこっちを見ている青年。ほんとまじ、ちったあ日本語勉強してこいや!てゆーか、英語が伝わる相手だったのかわかんないっちゅーねん!

そのまま、原爆ドーム前で下車。

私の高校では、私の代から修学旅行が長崎になったので、これが初広島。つまり、原爆ドームを見たのは初めてだった。しゃーしゃーとクマゼミの鳴く声が響いていて、夏の日差しをうけて建つ原爆ドームは都市の風景になじんでしまっている。しかし、コンクリートや鉄骨がむき出しになり、黒く焼け焦げた跡。その周りにちらばるレンガ。テレビでは何度も見たことがあったはずなのに、それはたしかにあまりに圧倒的に戦跡だった。

その正面には川。あの川が何人もの人が水を求めて飛び込んだという川だったのだろうか。今はそんな屍のならんだ光景を微塵も想像させないほど、治水工事が行われたきれいな川になっていた。原爆ドームの周りは木々がたくさん立ち並び、木陰では涼を楽しむ人も大勢いる。広島の人にとっては、ここの場所は過去であり、現在でもある。ここがもつ役割は、意味は、戦跡としてだけではない。

そのまま、平和祈念資料館のほうへむかう。途中には様々な慰霊碑やさだこの折りヅルの像などが立ち並んでいる。そしてあやまちはくりかえしませんから、という石碑と奥で広島の暑さの中にもかげろうのようにゆらゆらとした、平和の灯が一直線に見える場所で、人々は手を合わせていた。

ただ、こんなことを言ったら頭が固いと思われるかもしれないが、携帯で写真を撮っている人が多いのが、私にはよくわからなかった。自分が人より戦争のことを理解しているということではなく、これは「観光」としての「思い出のひとつ」にしてしまっていいのか、と思うからだった。静止画として記録に残さなくても大事なのは、そこでなにを思ったかではないのか。まして、ほんとうにそれを観光資源の一つ、ランドマークの一つとして消化していいのか、と考えてしまう。

便利な道具があるからといって、思索は深まらないし、思い出が語れるわけではない。

反復できないものを記録に取ることにどうしても私はおそろしさを感じる。もちろん、私も写真を撮る。しかし、シャッターを切った瞬間に過去になった情景を閉じ込めて、幸せな瞬間を閉じ込めていったいどうしようというのか、という思いもぬぐえないのだ。

こんなこと言う自分が自分で、めんどくさいけど。

そして、いよいよ平和祈念資料館へ入館。ここにも外国人が多いのはほんとに正直、意外だった。同じ停車口で降りなかったはずなのに、さっき路面電車でお金の払い方を聞いてきた彼もいた。向こうは気付かなかったみたいだけれど、私はびっくりした。宮島のほうに、行ったとばかり思っていたのに。それにしても、私は外国の戦跡について真面目に考えたことはあっただろうか。

資料館内ははじめは原爆投下に至るまでの経緯や、それまでの日本の中の広島という都市の役割が説明されている。そして、原爆投下が決定。

ここらへんから見たくなくなってくる。どんな未来になるか知っているくせに、ああだめだめやめてと過去の写真を見ながら思ってしまう。

原爆は現在の原爆ドーム横のT字型の相生橋という名前の橋を目標に投下され、ほぼ計算通りの位置に落下し、爆発した。半径2キロメートル内のほとんどの建物が倒壊したという模型は、ほんとにすさまじいものだった。街が一瞬で無くなる、というのは一体どういうことなのか、拳銃すらもったことのない私はその威力のすさまじさがうまく想像できない。

復興への広島の歩みなどの展示の後、いよいよここの平和資料館内でのおそらく一番つらい空間がはじまる。

原爆のどのような要因によって人々はなくなったのか、それによって街や物はどうなったのか、そして遺品の、展示である。

私は今回、初めて原爆について学んだことが多かったんだけれど、これほど複合的に様々な要素が人々を苛んだことを初めて知った。

原爆が爆発したことによる超高温、そしてそれによる火事と延焼、衝撃波、その土地に残ったものや黒い雨からなる放射能

自分の衣服や皮膚がただれ、ぶらさがるほどの火傷。鉄でできた窓が曲がるほどの衝撃波。

そして、それでも生き残った人々は自分の子どもや親を探しに行かずにはいられないということ。

平和資料館内には、8時15分で止まった時計だとか焼けこげたお弁当だとかがあるのは有名だと思うのですが、あれはみんな親や子どもが、遺品の持ち主が生きていることを必死に探しだした結果だということ。

助け出した時点では生きていた人も家族のかいなの中で、みな亡くなってしまったということ。こうした経験は家族が語らなければ、おそらくわからないし、伝えていかなくてはいけないことだ。幼い子どもや、学生や、孫を大事にする祖父母や、様々な人がそれまでの自分の人生をすべて一瞬のうちになくして、原爆犠牲者の一人にしか数えられなくなってしまう。そんなことになってはいけない。数ではない。私たちが想像すべきなのは、きっとそれぞれが失いたくなかったものを少しでも思わなくては。

聞いていていちばん苦しくなったのは、ある女の子の遺品。あの8月15日の朝、体調が悪いから休みたいとぐずるわが子を御国のためなのだから送りだしてしまった母親。それを後悔するも、子どもの体すら見つからない。そして代わりに連れ帰ってきたちいさなもんぺを前に、悔やんだ母の思いを想像すると息が苦しくなる。あなたのせいではないのに。

治療する薬もなく、水も物資もなく、死んでいくわが子の手を握るしかなかった親の悲しみ。どろどろにとけ、熱いとうめく母親の手を握っていた子どもの絶望。

つらい。あまりにも圧倒的な暴力。あの空の下にいた人を根絶やしにすることを目的にした、大きすぎる暴力。

そしてそれをふりかざしたあまりにも重く悲しい、結果。

悲しい遠い物語ではないのだ。原爆は実際にあった。私たちの世代にはすでにおとぎ話にしか思えないかもしれない。しかし、記憶として共有しなくてはならない。繰り返してはならない後悔の思い出として、私たちよりもっと遠くなる次の世代に、私たちは語らなくてはいけない。なぜなら、この暴力を許してはいけないから。圧倒的な暴力を許してはいけないはずだから。

私は今回広島を旅行して、そんなことを、思いました。

この後、宮島まで足をのばし、厳島神社までいきましたが、満潮の時間も干潮の時間も調べずに行ったため、景色は非常に中途半端なうえ、非常に磯臭かったです。

あと、あげもみじまんじゅうアイスというのをみんなやたら食べていましたが、あんまりおいしそうじゃありませんでした。

カキフライ定食は厳島神社に近づくほど値段が上昇し、最終的に2200円くらいになっていました。ちなみに底値は宮島駅正面の福屋さんの1350円。おそろしい物価の違い。

宮島へ行ったくだりが適当ですが、私の広島・鳥取旅行はこんな感じでした。